「しっかりおしや」-子規、秋山真之の一喝で喪主のつとめを果たす

明治19年(1886)4月14日、子規(当時大学予備門学生。数え年20歳)のおさななじみで、神田猿楽町の板垣方で子規と同居していた清水則遠(ブログ3月1日記事参照)がその下宿先で脚気衝心のため急死。子規は相当のショックを受けて、暫時放心状態となり、秋山真之に「しっかりおしや」と一喝されるという一幕があった。菊池謙二郎、柳原極堂はこの一件をそれぞれ次のように伝えている。

同郷で同窓の清水といふ男が脚気で死んだ時に、死骸の始末がすむと彼は悄然として気が抜けたやうに床の中にもぐり込んだ。それを気の強い秋山真之が見て「意気地がないな、しっかりおしや」と大喝したので、気の毒に思はれたことがあった。 菊池謙二郎(仙湖)「予備門時代の子規」

清水則遠は明治十九年四月十四日の午後脚気衝心を以て板垣楼上に急逝した。其朝から模様が多少変ってゐたが水腫する脚気は決して衝心せぬものと信ぜし居士(注-子規のこと)は清水が急死するなど夢にも想はず、僕は麻布の久松邸(注-久松は旧松山藩主)に赴き金を取って来るから其金が出来た上で医師の診療を受け給へなど言ひ慰めて外出せしが其の帰来せし時は清水は已に人事不省となり居り居士があわてて医師を聘し来りし瞬間に終に絶命し了ったのであった。
居士は其の死因の幾分が自分の不注意にあるものゝ如く感じ自責の念に駆られて少なからず痛心せしためか稍や放心度を失はんとせしが「升(のぼ)さんシッカリおしや」と秋山に一喝されて漸く我に返り自ら施主となりて野辺の送りも滞りなく取行ひ其顛末を郷里の清水家に報告せし長文の書が子規全集の「書簡壱」に載ってゐる。又「清水則遠氏」なる当時の状況を詳叙せし一篇は「筆まかせ」に掲げられてゐる。板垣時代に於ける居士としては清水の急死が最も深刻なる衝撃を与へし大事件であったのである。 柳原極堂「子規の〈下宿がへ〉に就て」[注-極堂の『友人子規』にもこれと同様の記述がある。]


柳原が伝えているように、秋山真之の一喝を受けた後の子規は自ら喪主となって、そのつとめを果たし、則遠の遺族に対しても委細をしたためた丁重な手紙(巻紙で8メートルを超える。松山市立子規記念博物館に展示。講談社版『子規全集』第18巻に翻刻)を送っている。それだけでなく、周囲から寄付を募って集めた金で画家に則遠の肖像画を描かせ、遺族にその絵を贈るということまでしている。子規の依頼を受けて肖像画を松山の遺族に送り届けた岩崎一高は当時を回顧して、「その翌晩(注-則遠の死の翌晩)にわれわれは通夜に行った。正岡が主になっていろいろと話をしてわれわれから十銭、二十銭と金を集めそれで清水の肖像をかかせこれを私がこちらに帰るので携へて帰ってそれを遺族に贈った。多分それは今でも清水則備君のうちに保存されてゐるはずだ。そんなことは正岡でないと誰も気のつかないことで、正岡といふ男は非常に友情に厚い男であった」(座談会「子規を語る」昭和6年)と述べている。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第10巻(初期随筆) 講談社 1975年5月
『子規全集』別巻3(回想の子規 附補遺) 講談社 1978年3月
松山市教育委員会編『伝記 正岡子規』子規記念博物館友の会 1979年2月

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