中村草田男

「降る雪や明治は遠くなりにけり」「万緑の中や吾子(あこ)の歯生(は)えそむる」など多くの有名な句をのこした俳人中村草田男(1901-1983)は、父の勤務地であった中国廈門(アモイ)の生まれだが、自身は松山生まれの松山育ちという意識が強かった。「松山で生まれ、中学、高校時代をここで過したことは、私の多感な青年期に大きな影響をもたらした」(「歴史の町松山」)と草田男自身が述べている。その草田男が故郷松山について語っている事柄を下に引用しておこう。

最近、用務を帯びて四国の町々を巡廻した義弟からの通信にも、「貴君のふるさとの松山は、四国の中でも最も平和なものやわらかな町です」とあった。
松山市-それの特性は城下町の一語に尽きる。短冊型に奥深く、内庭中庭奥庭とあって、果樹に充ち寒竹の生垣で隣家と境したような士族屋敷も其儘に残っている。瀬戸内海を控え、なだらかな山々をめぐらし、程よい広さの平野の中に、松山は昔からたった松山孤(ひと)りで暮らして来た。外部との激しい交渉は殆どない。謂わば血族だけが一つ所一つ屋根の下に水いらずの生活をしてきたようなものである。(「松山の道後」初出誌不明 1938年?)

藩時代の松山は穏やかな平野の中で、孤立しながらも安定した生活が保証され、しかも徳川の親藩であったためマイファミリー主義的な状態が長い間つづき、武士らしい武士はほとんど育たなかった。(「歴史の町松山」初出『日本の伝説・四国』1956年)

松山は親藩で、南国で、物資も豊かですし、土地柄はおっとりしていて、薩長土のような凛とした気風じゃないんです。一般の本来の気風は、若者に至るまで、まさに、今日の語でいったら「マイホーム主義」だったのです。つまり、いい意味でも悪い意味でも、後の漱石の用語にもたれれば、低徊趣味的であり、当初から俳諧趣味的だったんです。(「高浜虚子」初出「海」1978年6月)


外部との激しい交渉がほとんどなく、武士らしい武士が育たなかった松山。司馬遼太郎も伊予松山の人は「戦闘心が薄い」と述べていた(『坂の上の雲(一)』文春文庫)。草田男の「青年期に大きな影響をもたらした」(前記)というのが松山の特質のどこを指すものなのか自身は明言していないが、その穏やかな風土の上に形成された独特の文化的な雰囲気が人間探求派と呼ばれた草田男の精神の基層を醸成したことは確かであろうと思われる。

【参考文献】
中村草田男『子規、虚子、松山』みすず書房 2002年9月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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