松山収容所、各収容施設の所在地

日露戦争当時、松山にあったロシア兵の捕虜収容所。最多時の明治38年(1905)4月には4000人を越える捕虜が松山収容所にいたという。

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味酒町2丁目・大林寺(浄土宗)。松山収容所の開設は開戦翌月の明治37年(1904)3月18日。翌19日、最初の捕虜がこの大林寺に収容された。大林寺は松山藩松平家の菩提寺、当時の境内地は今とは比較にならないほどの広大なものだったという。

同年5月末の時点での収容施設は同寺のほか、松山衛戍病院・松山市公会堂・勧善社・法龍寺。寺や公共施設など既存の建物が収容所として使用された。

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この石垣の上は松山城の二之丸だったところで、現在は「二之丸史跡庭園」。明治の頃はここに陸軍の衛戍病院があった。傷病捕虜がこの衛戍病院に収容されたのであろう。

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松山市公会堂は今の大手町駅の南東付近にあった。木造二階の和風建築で、階上は200畳の大広間、階下は10数室に分かたれていた。

公会堂収容所では脱走事件が発生した(37年7月19日夜、ミルスキー騎兵中尉が5名の下士官を率いて脱走、22日朝、松山西郊の忽那山で確保された)。

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勧善社は今の西堀端電停(堀之内西口)付近にあった。勧善社は浄土真宗本願寺派の教導施設。藩の家老屋敷だったところを廉屋11代目の栗田与三が買い取り、浄土真宗の布教伝道のための施設とした。1000坪ほどの敷地に広々とした立派な会堂があったという。

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柳井町3丁目・法龍寺(曹洞宗)。37年5月末では以上が収容施設。

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味酒町2丁目・雲祥寺(曹洞宗)。37年6月、捕虜の増加にともない雲祥寺と妙清寺(日蓮宗)が収容所として追加されることになった。妙清寺は当時、松山市公会堂近くにあったが(三番町7丁目の最廣寺の東隣り)、昭和50年代半ばに市内山田町に移転。

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37年6月、城北練兵場に収容所の付属病室が建設、バラックと通称された。城北練兵場は陸軍(歩兵第22連隊)の演習用地で、今の愛媛大学(城北キャンパス)、松山赤十字病院の辺り。「陸軍省所轄地」の標柱が同大学近くの鉄砲町の道路わきに残っている。

ロシア兵墓地(御幸1丁目)にその胸像があるワシリー・ボイスマン大佐はこのバラックで死亡した。

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末広町・正宗寺(臨済宗妙心寺派)。37年7月、同寺を収容所として追加。

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37年8月、県庁東の大林区署跡に収容施設を建設、一番町収容所と呼ばれた(画像・現在の県庁)。松山収容所で既存の建物の借用でなかったのは、この一番町収容所と通称バラックの付属病室。

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大手町1丁目・妙圓寺(日蓮宗)。37年10月、同寺を収容所として追加。この妙圓寺収容所には、靴工・縫製工・錠前工などの技能者が集められて、それぞれの技能を活かした仕事をおこない「捕虜工場」と称された。かれらは捕虜だけでなく、ひろく松山市民からの注文も受けて仕事をしたという(エマールズというポーランド人のロシア兵捕虜は三番町の靴店に雇い入れられた。これが松山地方に靴の革新をもたらすきっかけになったといわれる)。

37年11月、出淵町の通称「木村屋敷」が収容所として追加、出淵町収容所と呼ばれた。「木村屋敷」は藩政時代より豪商であった木村家(屋号は布屋)の邸宅。三番町7丁目の最廣寺の西側辺りがその所在地だったようである。

次回につづく)

【参考文献】
松山商工会『松山案内』1918年11月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 近代上』1986年3月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 県政』1988年3月
松山市史編纂委員会『松山市史 第三巻』1995年5月
池田洋三『新版 わすれかけの街 松山戦前戦後』愛媛新聞社2002年6月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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