子規堂

市内末広町、正宗寺の境内にある子規堂。この子規堂は湊町新町(現在の湊町4丁目)にあった正岡家の旧宅の一部を模して建てられたものであるが、現在のものは3代目。当初、大正15年に建てられたものは昭和8年に焼失。2代目の子規堂も昭和20年に戦災で焼失し、現在のものは昭和21年に建てられた。

大正の末年、当初の子規堂が建てられることになったのは、湊町新町の子規旧宅の取り壊しがきっかけであった。『子規全集』別巻3に収録されている古賀蔵人「子規の居蹟」(初出「同人」12巻9号 昭和6年9月1日)に、子規堂の建設に至るいきさつが略述されているので、下に引用しておこう。

子規生ひ立ちの家は、明治二十二年米周呉服店主の手に渡った。今から十年程以前極堂氏其他二三の人が同家に招かれて会し、子規旧居保存の希望あることを先方より聞き、大いに賛意を表して別れたことがあったといふ。
それから幾年か経った大正十二年の冬のある日、町の書画商写楽堂主人藤田杉番氏が通り掛ると、この子規の旧宅がムザムザ取毀ち中で事情を訊くと今は米周の手から池内晴間氏の手に移ってゐるのだといふ。杉番氏は直ちに極堂氏の門を叩いて事情を報じ、せめて子規書斎の古材だけでも譲り受けようといふことになり、杉番氏が踵を返して池内晴間氏方へ交渉に赴き、僅かに残ってゐる一部の古材を無償譲り受ける話がついた。そこで、翌十三年霽月、極堂、叟柳其他の故友が相諮って正宗寺内に再建することに決し広く一口五十銭以上の寄附を募り、九百余円を得、それに一部故友が補足して、約一千円を以て建設に著手したのである。(中略)
さて、子規堂建設を愈々思ひたったのは大正十三年五月中旬、建設に取掛ったのは大正十四年九月三日、竣成を告げたのは大正十五年三月十日といふ。これは正宗寺現住職岡部氏が記録によって云はるゝ所である。子規堂はかうして出来た。


上引に子規の「故友」として名の出ている霽月、極堂、叟柳について簡単に記しておく。霽月は村上霽月(1869-1946)、名は半太郎、子規に先だって蕪村に傾倒し、のち子規の日本派に加わった。漱石との親交は終生つづいた。極堂は柳原極堂(1867-1957)、名は正之、旧号碌堂、雑誌「ほとゝぎす」の創始者。叟柳は野間叟柳(1864-1932)、名は門三郎、松風会結成時の発起人の一人。3人とも松山の出身である。子規堂建設に尽力したのはこうした松山出身の子規敬慕者たちであった。

【参考文献】
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺) 講談社 1978年3月

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード