松山捕虜収容所

松山にロシア兵の捕虜収容所が開設されたのは、日露開戦翌月の明治37年(1904)3月18日。翌19日、酒田丸で三津浜港に到着したその最初の捕虜が収容された。

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市内味酒町の大林寺。松山来着の最初の捕虜はこの大林寺の収容所に入れられた。「松山収容所」とされたのは、当初、大林寺・松山衛戍病院・松山市公会堂・松山勧善社であったが、のち雲祥寺・妙清寺・法龍寺・正宗寺・妙圓寺なども加えられ、城北にはバラックと通称される付属病院も建設された。明治38年(1905)4月の最多時には4000人を越える捕虜が松山のこれら収容施設にいたという。

司馬遼太郎の『坂の上の雲』はこの「松山収容所」について次のように言及。

この当時の日本政府は日本が未開国ではないことを世界に知ってもらいたいという外交上の理由もあって、戦時捕虜のとりあつかいについては国際法の優等生であった。ロシア捕虜をとびきり優しくとりあつかったというよりむしろ優遇した。
その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にもよく知られていて、かれらは投降するということばをマツヤマというまでになり、
「マツヤマ、マツヤマ」
と連呼して日本軍陣地へ走ってきたりした。(中略)
げんに好古の故郷の松山の旧城下町は、町ぜんたいが捕虜のための遊歩場のようになっており、町のひとびともかれらに親切で、捕虜侮辱といったような事件は一件もおこっていなかった。(『坂の上の雲』「会戦」)


「一件も……」というのは誇張で、市民との些細なトラブルも少しは発生、捕虜の脱走事件というのもあった。

滞在する夥しい数の捕虜による消費で松山は「捕虜景気」になったといわれる。松山の中心商店街の湊町は買物や飲食のために訪れる捕虜で賑わい、「ロシア町」と呼ばれるようになった。外国人相手の商売に慣れた長崎・神戸の商人らが湊町に店を構えるようにもなり、「長崎町」という呼び名も生まれた。「捕虜景気」で莫大な利益をあげたのは、おおかたその長崎商人ら県外者であったという。

【参考文献】
才神時雄『松山収容所』中公新書1969年7月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 近代上』1986年3月
司馬遼太郎『坂の上の雲(七)』(新装版)文春文庫1992年2月
松山市史編纂委員会『松山市史 第三巻』1995年5月
松山大学編『マツヤマの記憶 日露戦争一〇〇年とロシア兵捕虜』成文社2004年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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