吉平屋敷跡の「十六日桜」

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うそのやうな十六日桜咲きにけり 子規(明治29年)


松山市御幸1丁目・吉平屋敷跡の十六日桜(市指定天然記念物)。毎年正月16日(旧暦)頃に咲くというのでその名がある。昨日(3月8日)撮影。

この十六日桜については次のような2種の伝説がある。
①老翁がもう桜の花を見ることもあるまいと嘆いたところ、桜の木が直ちに感応して正月の十六日だというのに花開いた。
②重病の父が桜の花が咲くのを見たいと願うので、子の吉平が祈ったところ、正月の十六日だというのに花開いた。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』には「十六桜(JIU-ROKU-ZAKURA)」として次のような話が出る。伊予国和気郡の年老いた侍が慈しんできた庭の桜が枯れゆくのを嘆き、この木のもとで切腹、木に魂を移して木は生命力をとりもどした。以来、侍が切腹した正月十六日になると必ず花が咲くようになった。この話は①にいかにも日本的な切腹の要素を取り入れてアレンジしたものであろう。

松平定静が藩主であったとき、その和歌の師・冷泉為村に十六桜を贈り、為村より歌の返礼があったという。橘南谿の『西遊記』にこのことと上の②の伝説が記されているので、下に引いておこう。

伊予国松山の城下の北に山越といふ所あり。この所に十六日桜とて、毎年正月十六日にはこの桜満開してみごとなり。松山より花見とて貴賤群集す。寒気面をそぎ、余雪梢を封ずる頃に、この桜のみ色香めでたく咲き出れば、遠近の人ともにもてはやして、殊にその名高し。過ぐし年、先太守(注-藩主松平定静)より、和歌の御師範京都の冷泉家へこの花を贈り給ひしことあり。そのとき冷泉殿(注-冷泉為村)より御返事の御和歌あり。
十六ざくらといふ花を頃しも睦月半ばのたよりにうちこせしを末の四日に都に来りつきて、色もうるはしく、驚くばかりの初花桜の花になん。賞翫のことば。
きえのこる雪かと見れば 年々の睦月半ばに さくといふ初花桜 初春の柳の木の芽 それもまだ色わけそむる 頃にはや若葉もよほし ほころぶを散らさぬ風の たよりもて心は人の 見せばやと折りこせばこそ けふ見そめつれ
反歌
初春の初花桜めづらしき都の梅のさかりにぞ見る
なほこのほかに都鄙の詩人・歌人・俳人など見る人ごとに吟詠して賞翫す。余がかの国に遊びしは四月の頃なりしかば、花の時に遅れて見ざりき。残り多きことなり。かの国の人にこの桜の由来を聞くに、むかし山越の里に老人ありけるが、年殊に老いて、そのうへ重き病にふし、頼み少なくなりけるに、ただこの谷の桜に先立ちて花をも見ずして死になん事のみを嘆き、今ひとたび花を見て死しなば、浮世に思い残すこともあらじなど、切に聞こえければ、その子悲しみ嘆き、この桜の木の本に行きて、何とぞわが父の死し給はざる前に花を咲かせ給はれと、誠の心を尽くして天地に祈り願ひけるに、その孝心、鬼神も感じ給ひけん、一夜の間に花咲き乱れ、あたかも三月の頃のごとくなりけり。この祈りける日、正月十六日なりければ、その後は今の世に至るまでもなほ正月十六日に咲けるなりとぞ。(橘南谿『西遊記』巻之二)


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吉平屋敷跡「十六日桜」の傍らには「孝子桜古蹟碑」と刻まれた石碑。「孝子桜」は②の伝説にもとづいた名称。

【参考文献】
橘南谿『東西遊記・北窓瑣談』有朋堂書店1922年11月

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テーマ : 日記
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