三津の魚市(1)

三津には古くから魚市があったが(元和2年〈1616〉創設の伝承)、寛文のはじめ頃まではまだ魚問屋もなく、漁師から直接買い入れる方式だったので、その買い入れの順序や価格などをめぐる争いが絶えず、日々戦(いくさ)のごとくであったという。

古老の物語に、寛文の始めまでは、三津朝市の者、商売誠にことに軍(いくさ)のごとく、問屋もなく、我がちに漁者より買い求むる故、先後を争い、棒をもって打ち合い、包丁をもって疵をつけなどして日々騒がしかりし。また、三津水主(注-松山藩徴用の水夫で、船手に従属)の者ども、値段の高下を論じ、彼には安く売りし、我には価高しなどと罵りて、漁人の悩み大方ならず。(『垂憲録拾遺』)


寛文3年(1663)11月、藩は三津の天野作右衛門・同十右衛門・唐松屋九郎兵衛を魚問屋に任命、数ヶ条の規制を設けてその遵守を誓わせた。価格をめぐる争いはそれでもなおつづいたので、翌年3月、藩は「隠し言葉」での売買を命じ、争いごと一切がようやく収まったという。

故に寛文三年十一月、三津肴問屋という者を天野作右衛門、同十右衛門、唐松屋九郎兵衛へ仰せ付けられ、数ヶ条の御書き下げをたまわり、三人の者へ神文(注-誓いの起請文)仰せ付けられたり。これによりて、魚取引きの騒動はしずまりけれども、水主の値段争い以前のごとくなれば、翌年三月仰せ出(いだ)されしは、三津表魚市商売は隠し言葉をもって商いすべしと御沙汰あり。その節の大船頭福良某、ひそかに問屋とはかり浜値段というものを拵え、隠し言葉をもって隠し設けたれば、その後は水主値段の論は止()みたりとなり。しかれども、当時に至りては水主も隠し言葉を知りけれども論は止みたりと。(同上)


藩はのちに下松屋、怒和屋(ぬわや)、利屋(とぎや)、唐津屋なども魚問屋に加え、17名(18名とも)の株仲間として組織させた。これら魚問屋は毎年銀1貫目を冥加銀として藩に納め、藩も三津の魚市の特権を認めてこれを保護した(三津5里以内の地で他の魚市を開くことを禁止)。当時の魚市は洲先町(須崎町・現在の三津1丁目)の北の砂浜に魚問屋が毎朝集合し、各問屋ごとに円陣を組んで競()りをおこなう方式だったという。

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三津埠頭の現在の水産市場。

【参考文献】
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 社会経済(二) 農林水産』1985年3月
松山市史料集編纂委員会『松山市史料集 第十二巻』1985年4月
伊予史談会編集発行『垂憲録・垂憲録拾遺』1986年1月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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