松山城の鬼門守護のために建てられた寺

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松山市祝谷東町の天台宗常信寺。藩主松平定行が松山城の鬼門(東北の方角。陰陽道で百鬼が出入りする門といわれる)守護のために建てたという。定行は祝谷にあった円福寺を木屋町に移して、この常信寺を建て、比叡山より憲海(天海の弟子)を招いて開基に据えた。自身の墓所も常信寺と定め、城の鬼門守護を没後のつとめとすることを誓ったという。

常信寺御造立は勝山様(注-定行)おぼしめしなり。当地の地所は木屋町浄福寺(注-円福寺の誤りであろう)在住の本地なりしが、当時(注-現在の意)のところへ移され、新たに天台宗一寺を御造立なり。京都比叡山より憲海法印を御招請、一山開基の僧に御立てなされ、御自身(注-定行)百年の後(注-死後)は同寺へ御納めあそばされ、松山城の鬼門を御守りあそばさるべしとの御誓願なりしと。(『垂憲録拾遺』)


定行は当初、この祝谷に東照宮を建立する所存で材木なども用意していたのだが、幕府の許可が出ず、天台の寺であるこの常信寺を建立した。幕府の許しが出れば、すぐにも東照宮の造営にとりかかれるよう、用意されていた材木はそのまま保管されたという。

元来この常信寺の土地へ東照宮御造立の御志願にて、材木大半出来の上、公辺(注-幕府)へ御伺いのところ、御免許これなき趣きに付き、右の通り天台山御開き、御自身御当城の御守護のおぼしめしなりと。その後右木材は切り組みのまま御除()け置きあそばされ、時節もあらば御造立あそばさるべしとの御内意と恐察したるとなり。(同上)


『愛媛県史』の記述によると、常信寺はもと阿沼山弘真院と称して三津にあったが、勝山(城山)の麓に移り、慶安3年(1650)定行によって祝谷の現在地に再興された。松山城の鬼門の方角に天台の寺を建てたのは、江戸の寛永寺の例にならったものという。

常信寺についての過去記事→2011年4月13日記事

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【参考文献】
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 学問・宗教』1985年3月
伊予史談会編集発行『垂憲録・垂憲録拾遺』1986年1月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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