家康の弟・松平定勝

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城山の東麓にある東雲神社(松山市丸之内)。松山藩松平家の祖定勝が主祭神として祀られている。松平定勝は徳川家康の異父弟。家康の母・於大の方(水野忠政の娘)ははじめ松平広忠に嫁して家康を生んだが、のち久松定俊(俊勝)に再嫁して、康元・康俊・定勝ら三男四女を生んだ。『久松家譜』によると、家康がまだ元康という名であったとき、久松定俊、於大の方およびその三人の男子と会見し、「自分には兄弟がいないので、この三子を実弟と思う」といい、松平の姓と葵の紋を授けたという。

同年(注-永禄三年)東照公(注-徳川家康)今川義元のために兵を率いて尾張国に赴くとて、五月十八日、定俊の居城阿古居を過ぎ、定俊及び生母水野氏に謁見あり。時に二兄は傍に侍し、定勝は母氏の懐にあるを見ていわく、元康(注-家康)兄弟なし、この三子を実弟と思うべしと。よって源姓松平氏及び葵章を授く。(『久松家譜』上)


この会見のとき、於大の方の懐に抱かれていた定勝は家康に優遇され、伊勢桑名11万石の領主にまでなった。寛永元年(1624)、定勝が桑名で死の病に罹ると、将軍家光は35万石に封ずるという証書を定勝のもとに届けさせたが、定勝は「死に臨んで必要なのは一枚の布団と寝床のみ」といって、それを受け取らなかったという。定勝の子がのちにいずれも優遇されたのは、この証書の旨がつらぬかれたためであったと久松家では伝えている。

定勝の病に罹るや台徳公(注-徳川家光)岡田利良をして病を問わしめ、かつ三十五万石に封ずべきの旨証書をもって申し聞けられしに、定勝、使者の辞命を聞きおわり、使者に向かっていわく、足下はいかが存ぜらるるや、定勝終わりに臨み、もちうるところはただ一披の衾、一臥褥のみ、このほかさらに何の用をかなさん、その証書は裂り棄てるとも、持ち帰らるともよきにはからい給うべしと。使者やむを得ずして持ち帰れり。のち嗣子定行、三男定綱、五男定房等の封を増し、六男定政の新たに封ぜられしはこの証書にそむかじとの意なるべしという。(『久松家譜』上)


この定勝の嗣子として桑名11万石を継承したのが定行であった。定行はのちに松山15万石の領主として当地に入部することになる。

【参考文献】
松山市史料集編集委員会『松山市史料集 第二巻』松山市役所 1987年4月
松山市史編集委員会『松山市史 第二巻』松山市役所 1993年4月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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