牛耕が主流だった伊予国

古國の伊豫の二名(ふたな)に馬はあれど牛がしろかく堅土(かたつち)にして


子規、明治33年(1900)作の歌。「伊豫の二名」は『古事記』では四国の総称(『古事記』上巻では四国全体が「伊豫之二名嶋」と称されている)であるが、ここでは伊予国の別称。伊予国は堅土だから牛が代掻(しろか)きをすると詠んだ歌である。この歌に詠まれている通り、伊予では牛耕が主流であった。東日本は馬耕、西日本は牛耕、西日本でも九州は馬耕という傾向があったらしいが、伊予では明治初期頃より牛耕が普及、昭和初期の段階で松山平野では牛耕率が90%に達していた。代掻きの季節には牛をつかっての作業風景が松山平野の一円で見られたらしい。

【参考文献】
『子規全集 第六巻 短歌 歌会稿』講談社 1977年5月
「松山平野における牛耕の普及と盛衰」窪田重治(伊予史談310号・1998年7月)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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