「ほとヽぎす」の東京移転、子規の悲壮な覚悟

明治30年(1897)1月に柳原極堂によって創刊された「ほとゝぎす」(→過去記事)は、20号をもって松山の発行所を閉じ、東京に移転して高浜虚子の編集で刊行されることになった。虚子はまだ若く、子規が主導してこれを刊行して行かなければならない。

「ほとゝぎす」は子規にとって自身の生命ともいうべきもの。

余はほとゝぎすと終始せんと欲する者なり。余死すとも固(もと)よりほとゝぎすは死せざるべし。しかもほとゝぎす死するの日は即ち是れ余の死する日ならざるべからず。ほとゝぎすは余の生命なり。(正岡子規「ほとゝぎす発行処を東京へ遷す事」「ほとゝぎす」第20号掲載)



悲壮な覚悟で子規はその東京移転を決断した。

高浜はいよいよ雑誌発行に定め候由、私は死地に踏み込む心地致し候。(明治31年8月4日付・内藤鳴雪宛書簡)

今般ほとゝぎすを東京に移して、虚子これを担任し、小生と二人にてやって行く事にあいなり、苦しさは思いやられ候えども、今さら引くわけにも参らず、死を決し申し候。(同年9月7日付・佐藤洽六宛書簡)

ホトヽギスが倒れるようなら僕ア生きていないつもりだ。(中略)僕は雑誌と討死するのはかまわん。(同年10月〔初旬〕・石井祐治宛書簡)


子規はすでに病臥の身、語られているような死の覚悟も決して誇張ではなかった。

【参考文献】
『子規全集 第五巻 俳論俳話二』講談社 1976年5月
『子規全集 第十九巻 書簡二』講談社 1978年1月

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テーマ : 歴史上の人物
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