明治30年1月15日、「ほとゝぎす」創刊

明治30年(1897)1月15日、俳誌「ほとゝぎす」が創刊。子規の友人の柳原極堂(→過去記事)が編集発行者で、彼の自宅の松山市立花町五十番戸がその発行所であった。資金も乏しかったので、極堂の勤める海南新聞社から紙をわけてもらって印刷・製本。定価6銭で、300部が発行された。

極堂の自宅である「ほとゝぎす」の発行所では、次のような珍談もあった。

或る日、一人の婆さんがやって来て、何とか病の薬に黒焼きにするのだからほととぎすを少々分けてくれという。私方のは薬になりません、俳句ですからと答えると、その肺病に効くことは私承知しているのだという。いや私方のは本なのですと断っても、婆さん承知しない。効能書ですかには予も全く弱ってしまって、ほととぎすを一冊投げ出して見せたので、初めて合点したらしく、ははあわかりましたと苦笑して出て行った。(柳原極堂『友人子規』「ほととぎす発刊」)


ホトトギスの黒焼きは当時、民間薬であった。結核・肺炎・風邪、その他万病に効くと信じられていたのである(『日本俗信辞典』)。

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松山市北立花町にある「俳誌「ほとゝぎす」創刊の地」碑。側面には「祝「ほとゝぎす」発刊 新年や鶯鳴いてほとゝぎす」、副碑には「明治三十年一月柳原極堂創刊 明治三十一年十月東京へ移し高浜虚子発行 正岡子規は存命中主宰者的存在であった」とある(「新年や~」は「ほとゝぎす」の発刊を祝した子規の句)。

極堂発行の松山版「ほとゝぎす」は20号をもって終わったが、この間の極堂は「自分が雑誌を出すという誇りよりも、全く子規のために出しておるという考えが一貫しておった」と虚子(東京版「ホトトギス」発行者)が述べている(「友人子規」序)。

【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
鈴木棠三『日本俗信辞典』角川書店 1982年11月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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