柳原極堂「ほとゝぎす」発刊の決意

明治29年(1896)の暮れ、松山から柳原極堂が上京し、子規庵での例会で俳誌発行の考えがあることを明かした。金のことは一切引き受けるから、原稿だけは皆の協力を仰ぎたい、誌名は「ほとゝぎす」と決めているというのが、極堂の話の要件であった。

明治廿九年の節季に極堂が上京して、草廬の例会に出て来て、始めて俳諧雑誌を出す事を話したので我々も驚いた位であった。極堂がいふには、雑誌を出すにつけても金の事は僕一人で引き受ける、少しも他人を煩さない、雑誌の名前に就いてもいろいろ諸君の御意見もあらうが、僕は独断でホトトギスと極めてしまうた、只原稿の事だけは一切諸君の供給を仰ぐ積りだが引き受けてくれまいか、というやうな無造作な話なので、満堂の人も直ちに原稿の供給を承諾した。(正岡子規「ホトトギス第四巻一号のはじめに」)


子規らはこれを快諾し、翌年1月、極堂を編集発行者とする俳誌「ほとゝぎす」が松山で発刊された。誌名の「ほとゝぎす」は子規の雅号に由来(漢語「子規」はホトトギスのこと)。この誌名にあらわれているように、「ほとゝぎす」は子規のためのもの、子規の起こした俳句革新運動を松山から支えて行こうとするものであった。松山中学以来の子規の友人であった極堂。その極堂の子規に対する友情で発刊されたのがこの俳誌だったのである。

【参考文献】
『子規全集 第五巻 俳論俳話』講談社 1976年5月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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