明治25年11月30日の千島艦沈没事故を伝える碑

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松山市堀江町の浄福寺。

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同寺境内にある東郷平八郎揮毫の「千島艦遭難碑」。千島艦は海軍がフランスの造船所に発注した水雷砲艦(750t)で、明治25年(1892)4月に竣工。日本に回航中の同年11月30日未明、興居島・睦月島の間の水域でイギリスの商船ラベンナ号(2372t)と衝突して沈没、乗員90名中74名が死亡した(ラベンナ号も損傷を受けた)。この事故の水域に近く、私設の水難救済所もあった堀江村(現在の松山市堀江町)では、村民らが迅速に対応して献身的な救助活動をおこなった。当時はまだ交通不便な時代であったから、救出された生存者は船で三津浜へ送られ、三津浜から鉄道で松山衛戌病院に移されたという。浮遊していた多数の物品なども村民らが回収したが、のちにその受取担当官として海軍から来たのが広瀬武夫(当時少尉)であったといわれる。

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東郷平八郎(左)・広瀬武夫(右)

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浄福寺の境内には「千島艦覆没」の前書「ものゝふの河豚にくはるゝ悲しさよ」の子規句碑もある。子規は明治25年12月1日に新聞「日本」に正式入社。翌日付の紙面には、この千島艦事故を取り上げた「海の藻屑」と題する子規執筆の記事が掲載された。

海の藻屑 奔浪怒濤の間に疾風の勢を以て進み行きしいくさ船端なくとつ国の船に衝き当るよと見えしが凩に吹き散らされし木の葉一つ渦巻く波に隠れて跡無し。軍艦の費多しとも金に数ふべし。数十人の貴重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の値問はまほし。
  ものゝふの河豚に喰はるゝ哀しさよ


この事故については、すでに1日付の「日本」で「沈没溺死 松山特発丗日午前一時四十五分 今朝未明和気郡堀江沖に於て英船ラヘナ号と衝突し軍艦千島沈没し乗組員溺死多し」と伝えられていたから、子規は追悼の句を入れ、情に訴えるかたちでこの事故の悲惨さを伝えようとした。「日本」に掲載されたこの句の表記を子規はのちに「ものゝふの河豚にくはるゝ悲しさよ」と改訂。浄福寺の句碑にはこの改訂後のものが刻まれている。

【参考文献】
『子規全集』第2巻(俳句2)講談社 1975年12月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月
松尾忠博「軍艦千島の沈没と正岡子規」(「子規会誌」34号)1987年7月
「ふるさとほりえ発見の旅」編集委員会『ふるさとほりえ発見の旅』堀江公民館 2000年9月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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