連合国軍の本県進駐(昭和20年10~11月の接収処理)

昭和20年(1945)8月15日、戦争の終結を伝える天皇のラジオ放送。同月末には連合国軍の日本進駐が始まる。四国への進駐は、10月11日、デッカーソン中佐らの先遣隊が三津浜に上陸したときから始まった。この日から翌月にかけて四国進駐軍は四県にある日本軍の関係施設を接収し、残っていた兵器・需品等の処理をおこなった。県内海軍物件の接収処理については、それを記録した公文書(海軍少将森敬吉作成)がアジア歴史資料センターで公開されているので(レファレンスコードC08011418100)、下にその主要な部分を転記しておくことにしよう。

[松山]
十月十一日 進駐軍先遣隊(指揮官米第六軍参謀「デカーソン中佐」三津浜ニ上陸 道後ニ進駐軍事務所開設 呉鎮連絡参謀妹尾海軍少佐同行
十二日 先遣隊員松山航空基地及附近海軍関係現場視察調査
十五日 県庁内終戦連絡事務所ヨリ本県海軍物件ノ処理ハ二十四師団之ニ当リ以降松山地区ノ小武器ヲ接収スル旨連絡アリ
十七日 右ニ対スル領収書ニ「テッサー」大尉署名ス
十九日 米軍先発工兵隊松山上陸 内海航空隊及旧松山航空隊兵舎ニ宿営 宿営資材トシテ内海空基地保管中ノ施設材料及兵器需品ノ一部ヲ米軍搬出ス
二十二日 二十四師団司令部及主力松山ニ進駐シ市立図書館ニ司令部設置 進駐軍ノ大部ハ内海空飛行場兵舎及旧松山航空隊内ニ宿営 兵力約一万二千 佐伯海軍少佐呉鎮守府連絡参謀松山派遣勤務トナル
二十四日 二十四師団長同司令部ニ於テ四国地方総監 各県知事 四国軍管区司令官及内海空司令官ニ接見ス
二十九日 松山基地ニ在ル全飛行機焼却
三十一日ヨリ十一月四日マデ 松山基地内ノ爆弾弾薬ノ一部海中投棄 其他諸兵器需品処理
五日 六日 松山基地隧道崩壊ノ為埋没中ノ爆弾火工品ハ最初掘出スコトトナリ作業中隧道落盤セルモノアリテ埋没ノ儘爆破ス(埋没数量不詳) 隧道内ニテ誘爆アリ
六日 七日 松山基地及附近砲台ノ探照灯爆破 砲身砲架及高射装置処理
十五日 二十四師団海軍連絡将校「ランダース」少佐ハ松山地区ノ兵器接収竝ニ処理完了ヲ通告ス
[宇和島]
十二日 呉鎮第十二特陸宇和島地区兵器需品接収処理完了
[菊間]
十四日 呉軍需部菊間倉庫兵器需品接収処理完了
[西条]
二十三日 西条航空隊兵器需品接収処理完了
[城辺]
二十日 呉鎮第十二特陸城辺地区兵器需品接収処理完了
二十三日 第二十一突撃隊城辺地区兵器需品接収処理完了
[豊後水道東岸]
二十三日 佐伯防備隊各防備衛所兵器需品接収処理完了
[全般]
十八日 二十四師団司令部ヨリ左ノ期日ヲ以テ全県下海軍兵器処理ヲ完了スルニ付同日付解員ヲ発令ス 十一月二十一日 各隊各庁 二十二日 各司令部
二十三日 二十四師団司令部ハ本日ヲ以テ別冊目録ニ依ル全県下ノ海軍兵器需品引渡ヲ完了セルコトヲ本職代理トシテ派遣セル三井海軍大佐ニ証セリ


10月22日、「約一万二千」の主力将兵が上陸したのは、『愛媛県史 県史』によると、梅津寺の海岸であったらしい。同日、「市立図書館ニ司令部設置」とあるが、これは県立図書館(当時は二番町に所在)の誤りである。24日の四県知事らの接見は、『愛媛県史 県史』および『愛媛県史 年表』では25日と記載されている。上引の公文書はさらに兵器等の処理について次のようにも記している。

[海中投棄]爆弾 火工兵器、砲弾、機銃弾、小銃弾、榴弾、魚雷頭部、回天、事業灯、充電機、二池電池基板、木製隔離番
[爆破]高角砲、同砲架、機銃架台、指揮装置、探照灯、魚雷底部
爆弾、火工兵器(埋没ノマヽ)
[焼却]飛行機


「海中投棄」の欄には「回天」の文字がみえる。回天は海軍の特攻兵器、いわゆる人間魚雷である。旧・西海町の麦ケ浦基地には終戦時、回天が8基あった。「麦ケ浦基地兵器目録」には「特攻兵器及付属品」として、次のような記載がある(アジア歴史資料センター「昭和二十年八月三十一日現在 兵器燃料需品・施設舟艇車両引渡調書 第二十一突撃隊」レファレンスコードC08011118800、C08011443100)。

回天 八基 一、三、六、九、一三番壕 一、三、九番壕-各二基 六、一三番壕-各一基
仝右架台 一〇組 一、二、三.四、六、九、一三番壕 一、三、九番壕-各二組 二、四、六、一三番壕-各一組


8基の回天は旧・西海町(現在の愛南町)沖に沈んでいるはずである。


【参考文献】
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 県史』1988年11月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 年表』1989年2月

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