「烈女松江」伝説

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三津大可賀公園(松山市大可賀1丁目)の一角にある「烈女松江碑」、後方にはその松江の墓。松江(満津江)については次のような伝説がある。

松江は大洲藩加藤家の浪人井口瀬兵衛の二女で年十八の才色兼備の評判娘であった。瀬兵衛が大洲を浪人して松山領三津浜に来たり、ささやかな道場を開いて地方の子弟に剣道の教授をしていた。その門弟の中に岩蔵という悪青年があったが、この岩蔵が松江の美しい姿に懸想し、言い寄ったけれども松江はもとより応ぜなんだので一夜瀬兵衛の不在を窺い。悪党数人を語ろうて松江の家に押しかけ強いて松江に迫って我が意に従えと脅迫した。そこで松江はやむを得ず短刀を抜いて岩蔵を一突きに刺し殺し、急を聞いて帰宅した父に事情を語って父の刃に死なんことを乞い、父と相携えて海岸に出て従容として首さし延べ、父を励ましてその刃に斃れた。世人その貞烈を賞して大可賀に碑を建て烈女の鑑として、今日もなお香花の絶えることがない。(『みつが浜』「烈女松江の墓」)


自分を襲った男を殺害した松江が父の手にかかって死ぬことを望み、願いどおりの死を遂げたのは文化10年(1813)12月8日であったという。のちに「烈女」と讃えられることになる松江だが、彼女にまつわるこの一連の話は事実あったことよりもいささか美化されているともいわれている。

三津大可賀公園にある松江の墓にはひと昔前まで、夫婦仲に悩む人の参詣が絶えなかった。1978年刊の佐々木忍『松山有情』には、大可賀に住むある老人の次のような話が出ている。

この間も“願かけ”に今治から来ておりました。理由はやっぱり夫婦問題でした。この人はもう離縁するハンコまで押すようになっていたのに、ここへお参りしたら急にムコさんが心を入れ替えたんですよ。このごろでは、九州や大坂、広島、東京あたりからもきよりまさい。なかには祈願のため、ハダシで来て、ハダシで船に乗って帰る人もおりますのよ。(『松山有情』「烈女松江の墓」)


今の時代、こうした「願かけ」のために参詣する人はもういないだろう。

【参考文献】
栗本諒『みつが浜』三津浜商工会 1923年4月
三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960年12月
佐々木忍『松山有情』愛媛県教科図書株式会社 1978年5月


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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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