「大可賀新田」

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松山市大可賀2丁目の「アイテムえひめ」の北側にある「大可賀新田記」碑(左)と「大可賀新田起工五十年紀念」碑(右)。前者は昭和46年(1971)の建立(碑文は明治13年〈1881〉藤野正啓撰)、後者は明治34年(1901)の建立。

「大可賀新田」は、藩政時代の末期に当時の山西村西部の海岸一帯を干拓してできた新田。松山藩士・奥平貞幹が和気郡代官であったとき、山西村の庄屋・一色義十郎が干拓の計画書を提出、藩の許可が出てこの新田が開発された。奥平貞幹が起工の責任者となり、一色義十郎のもと山西村の組頭・又兵衛、別府村の組頭・喜三衛門らが協力して工事に当たったという。嘉永5年(1852)起工、安政2年(1855)造成工事終了、同5年(1858)落成式。時の松山藩主がこの新田の完成を喜び、「大いに賀す可()し」と言ったことから「大可賀新田」の名がついたといわれている。

「大可賀新田」は宮前川の分流を開削して放流させ、土砂を堆積させるという特色ある工法で開拓された。この工法は完成までに長期間を要するが、経費・労力を節減することができたという。

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「大可賀新田記」碑には、下記の文言がみえる。

(上略)西流三百六十間 北四百八十間 設閘三所 以洩汚水 鑿渠上游 以引清流 起于嘉永壬子 至安政乙卯竣 費財二萬六千八十六金 得田六千六百九十三畝 命曰大可賀新田 以属山西 為支村(以下略)
明治十四年九月 故松山藩士修史館編修従六位藤野正啓撰

【訓読】
(上略)西は流さ三百六十間、北は四百八十間。閘を三所に設け、以て汚水を洩らす。渠を鑿ち上に游ばせ、以て清流を引く。嘉永壬子に起こし、安政乙卯に至て竣す。財を費やすこと二萬六千八十六金、田を得ること六千六百九十三畝。命じて大可賀新田と曰い、以て山西に属し、支村となす。(以下略)
明治十四年九月 故松山藩士修史館編修従六位藤野正啓撰


「嘉永壬子」は嘉永5年(1852)、「安政乙卯」は安政2年(1855)である。

【参考文献】
松山市史編集委員会編『松山市史』第2巻 松山市役所 1993年4月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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