正岡子規愛用の帽子

明治28年(1895)7月23日、子規は神戸病院を退院、虚子がつき添い須磨の保養院に移るのだが、病院を出て駅に向かう途中で一つの買物、子規が購入したのはヘルメットタイプの帽子であった。

いよいよ須磨の保養院に転地するようになったのはそれから間もないことであった。病院(注-神戸病院)を出て停車場に行く途中で、帽のなかった居士(注-子規)は一個のヘルメット形の帽子を買った。病後のやつれた顔に髯を蓄え、それにヘルメット形の帽子を被った居士の風采は今までとは全然異った印象を余に与えた。(高浜虚子「子規居士と余」十)


日清戦争に記者として従軍した子規は帰路、佐渡国丸の船上で喀血、神戸病院に入院し、一時は危篤状態であった。その子規が退院後、ただちに買ったのがこの帽子。須磨に移った子規はこの帽子をかぶり、虚子を伴って須磨の松林を散策するなどした。

初め居士の神戸病院に入院したのは卯の花の咲いている頃であったが、今日はもう単衣を着て松の落葉の欄によるのに快適な頃であった。居士がヘルメット形の帽子を被って単衣の下にネルのシャツを着て余を拉して松原を散歩するのは朝夕(ちょうせき)の事であった。(高浜虚子・同上)


須磨で一ヶ月ほどの療養を経て、子規は松山に帰省、二番町の愚陀仏庵で漱石と50日余りの同居生活をおくる。その間の子規の外出姿はヘルメット帽にネルの着流しであったと久保より江(愚陀仏庵の家主上野義方の孫娘)は記憶している。

今でも目に残っているのは子規先生の外出姿、ヘルメットにネルの着流し、ややよごれた白縮緬のヘコ帯を痩せて段のない腰に落ちそうに巻いていられた。(久保より江「二番町の家」)


司馬遼太郎が描く愚陀仏庵時代の子規の外出姿もヘルメット帽に着流しであった。

松風会の会員で柳原極堂という俳句熱心の若者がある日「愚陀仏庵」にたずねてくると、
「ええとこへきた。石手寺まで散歩しよう」
と言い、着ながしに防暑用のヘルメットをかぶってあるきだした。極堂は不安におもった。石手寺まで往復四キロはあるであろう。からだに障らぬかと不安だったが、当の子規は平気で、途中、あたりの景色をたのしげにながめながら歩いた。(司馬遼太郎『坂の上の雲』「須磨の灯」)


故郷で50日余り過ごしたあと子規は上京、途中、奈良に立ち寄るなどして10月31日に東京新橋に着いた。新橋で子規を出迎えた虚子はそのときの子規が例のヘルメット帽をかぶっていたと述べている。

居士は二十八年の冬はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過()ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に疼痛を覚えると言って余のこれを新橋に迎えた時のヘルメットを被っている居士の顔色は予想しておったよりも悪かった。(高浜虚子・同上)


こののち子規は病臥の身となるのだが、ヘルメット帽はまだ歩くことのできた子規の愛用の品であった。子規の時代には防暑用としてこれが流行していたのかもしれない。流行には敏感であった永井荷風の「洋服論」というエッセーにヘルメット帽についての言及があるので引いておこう。

ヘルメット帽は驟雨に逢う時は笠の代用をなし、炎天には空気抜より風通いて涼しく、熱帯には適したるもの。英国人の工夫に創(はじ)まるという。(永井荷風「洋服論」)



【参考文献】
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月
野口富士男編『荷風随筆集(下)』岩波文庫 1986年11月
長谷川泉監修『近代作家研究叢書133 子規言行録』日本図書センター 1993年1月
司馬遼太郎『坂の上の雲(二)』文春文庫(新装版) 1999年1月
高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫 2002年8月

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テーマ : 歴史上の人物
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