明治25年7月22日、子規・碧梧桐・虚子、三津の溌々園で会食する

河東静溪(碧梧桐の父)の日記、明治25年(1892)7月22日条に次の記述。

七月廿二日 秉兒(引用者注-秉五郎=碧梧桐)、正岡・高浜の二生と三津溌々園に遊ぶ。正岡これを饋る。八時帰る。(『子規全集』第9巻「参考資料」)


同日、正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子の三人は三津の料亭「溌々園」に赴いたようであるが、虚子の回想記に同日のことに言及した次のような記述がある。

三津の生簀(引用者注-溌々園のこと)で居士(引用者注-子規のこと)と碧梧桐君と三人で飯を食うた。其時居士は鉢の水に浮かせてあった興居島の桃のむいたのを摘み出しては食ひ食ひした。其帰りであった。空には月があった。満月では無くて欠けた月であった。縄手の松が黒かった。もう其頃汽車はあったが三人は態(わざ)と一里半の夜道を歩いて松山に帰った。其は、「歩いて帰らうや。」といふ居士の動議によったものであった。其帰りに連句を作った。余と碧梧桐君とは連句といふものがどんなものか其さえ知らなかったのを居士は一々教へ乍ら作るのであった。何でも松山に帰りつく迄に表六句が出来ぬかであった。(高浜虚子「子規居士追懐旧談」『子規全集』別巻3)


虚子の別の文章にも同様の記述。

其の時分私の兄が三津の生簀に関係してをった。居士に始めて私が面会したといふしるしに、兄が居士をその生簀に招んで御馳走をした事がある。もとよりたいした御馳走ではなかったが居士と碧梧桐と私だけで膝を組んで快談したことを覚えて居る。(中略)いつかも何かに書いた事があるが、この時はたいへん話がはづんだので、夜が更けて松山へ帰る時分にも、汽車に乗らず、居士は、「歩かうや」と云って先に立って歩きはじめた。一里半の夜路を三人は歩いて帰った。それも只歩いて帰った訳ではなく、三吟の歌仙を作りつゝ帰った。(高浜虚子「子規居士の古い時代の句を読む」『子規全集』第1巻「参考資料」)


これによると、このときの溌々園での会食は虚子の兄の招待によるものだったらしい。「私の兄が三津の生簀に関係してをった」というのは溌々園に勤務していたということであろうか。この兄は虚子が子規の指導を得るようになったことを感謝して、一席設けたのであった。明治25年(1892)7月22日、122年前の今日がその溌々園での会食の日である。

【参考文献】
『子規全集』第1巻(俳句1)講談社 1975年12月
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺)講談社 1978年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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