正岡子規「帰郷中目撃事件」

明治22年(1889)7月7日、正岡子規、松山に帰省(9月25日まで滞在)。東京に居を移して以降、死去までに計9回おこなわれた子規の帰省のこれがその3回目である。20年7月の2回目の帰省から2年、故郷の変化も目につくものが多く、子規はそれらを「帰郷中目撃事件」と題する一篇に箇条書きにしてまとめた。

本年夏期帰省して一昨年と変りたるものゝ著きものをあぐれば左の如し。
一、三津港に高き烟突の多くできしこと。
一、三津松山間に軽便鉄道出来し事。
一、我家の移転せしこと。
一、老人のますます弱り小児の非常に大きくなりしこと。
一、親類に顔を知らぬ子多く出来し事。
一、家並のよくなりしこと。
一、少しらしき家には陸軍歩兵少尉中尉大尉などいふ標札の必ずかけあること。
一、立花橋が鉄橋風にできしこと。
一、新道ができしこと。
一、道後の公園少しさびしこと。
一、我家に老人をかきしこと。少妹を嫁せし事。
一、友だちが官員となり新聞記者となりたるある事。
一、友だちが口髯をはやせし者多きこと。
一、友だちの妻帯せし者多きこと。
一、友だちの子を生みし者あること。
一、新たに城北に練兵場を設けしこと。
一、知事書記官などの変りしこと。
一、私立中学校のできしこと。
一、総ての風が東京に似ること。言葉も多少東京に似ること。
一、沖釣りの流行すること。
一、三津にボートができしこと。
一、新浜に池洲(いけす)ができしこと。
一、萱町に公会堂のたちしこと。
一、大街道の川上の家を取りのけし事。
一、新栄座といふ芝居小屋のできし事。
一、囚徒が車を引き鈴を鳴らし塵芥を集めにくる事。
一、城楼の奇麗になりしこと。(『筆まかせ』第一編明治二十二年の部「帰郷中目撃事件」)


以下、若干の注を加える。「三津港に高き烟突の多くできしこと」-三津の名物として知られた三津浜煉瓦会社の大煙突はのちの時代のものだから、ここで指しているのは港周辺の鉄工所等の煙突であろう。

「三津松山間に軽便鉄道出来し事」-明治21年10月、伊予鉄道が日本最初の軽便鉄道として開業。当初の路線は三津-三津口-松山であった。

「我家の移転せしこと」-明治21年5月、正岡家は湊町四丁目一番地から湊町四丁目十六番戸(大原家屋敷十番地内)に移転。この移転後の家には夏目漱石が訪れたこともある(明治25年8月中旬)。漱石は当時のこの正岡家で松山鮓のもてなしをうけた。

「立花橋が鉄橋風にできしこと」-文政年間(1818-1830)架設の旧立花橋が明治22年4月、鉄橋のものに建て替えられたことをいう。

「新道ができしこと」-明治19年着工の土佐街道を指すものであるらしい。当時の県民を驚かせた大工事であったという。

「道後の公園少しさびしこと」-藩政時代、「御竹藪」と呼ばれ、竹林と化していた湯築城跡は明治21年6月、愛媛県道後公園となった。公園となってからのちも竹藪のさびしい雰囲気が残っていたのであろう。

「我家に老人をかきしこと。少妹を嫁せし事」-「老人を~」は子規がなついていた小島久(曾祖父常武の後妻)が死去したこと、「少妹を~」は妹律が22年6月、中堀貞五郎(松山中学教師)と結婚したことをいう。

「友だちが口髯をはやせし者多きこと」-江戸時代は一部の職種を除けばひげを蓄えない時代。明治になると、官員や軍人などが権威づけのためにひげを蓄えるようになった。明治政府には若い世代が多く登用されたが、その若さを隠し、権威をつけるためにはひげが有効な手段であった。

「新たに城北に練兵場を設けしこと」-明治22年3月、松山城の北の広大な土地に「城北練兵場」が設置。歩兵第22連隊の演習用地であったが、一般の立ち入りは自由で、子供たちの恰好の遊び場となっていた。中学生の高浜清(虚子)がはじめて子規と出会ったのもこの練兵場であった。

「言葉も多少東京に似ること」-子規の「言語の変遷」(『筆まかせ』第二編・明治二十三年の部所収)には、その具体例が以下のように挙げられている。「また「大変」という語は東京にては普通の言葉にて「甚だしき」の意味なるが、この頃は少し松山に入りこみたるが如し。「よしにおし」というが松山語なるが、「およし」という松山人も出来たり。松山にては丁寧なる返事は「ヘイ」のみなりしが、「ハイ」という言葉は殆ど普通になれり。「故に」というは松山にて「ケレ」という。今では東京語「カラ」をいう者多し」。

「沖釣りの流行すること」-三津・高浜辺りより釣船を出して遊漁することが流行するようになった。夏目漱石も在松時代に高浜沖での釣りを体験している。

「新浜に池洲ができしこと」-三津の旧船場町に「溌々園」という料理店ができたことをいう。敷地内に大きな生簀があったことから、「三津のいけす」と呼ばれた。明治20年代のはじめ頃まで旧船場町は新浜村(今の辰巳町から高浜にかけての地)の飛び地であったので、「帰郷中目撃事件」では「新浜に~」となっている(「池洲」は生簀のあて字)。「溌々園」の経営者は子規の大叔父の歌原邁で、子規はこの店を頻繁に利用した

「新栄座といふ芝居小屋のできし事」-明治20年10月、大街道の一番町側入り口に新栄座が落成、松山地方初の本格的劇場であった。23年7月16日付の五百木良三宛て子規書簡には、「肝をつぶせしもの」として「新栄座の釣天井」が挙げられている。28年10月6日、子規は漱石とともにこの劇場を訪れ、泉祐三郎一座の照葉狂言を観劇した。

【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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