明治25年7月15日、正岡子規、高浜の延齢館に赴く

明治25年(1892)7月15日-この日、子規は碧梧桐・虚子とともに高浜の延齢館に赴き、その一室「雪の間」で競吟(せりぎん)をおこなった。子規の「雪の間に小富士の風の薫りけり」(前書「高浜延齢館ニテ」)という句はこの日のことを詠んだものであろう(同日の競吟の句会稿には記載がないから後日回想して詠まれたか)。

延齢館は高浜1丁目の小僧坂と呼ばれる高台にあったリゾート施設。小富士(標高282m)の聳える興居島を沖合に望むことのできる眺望絶佳の場所にあった。延齢館での競吟の翌日、子規が書いた手紙にはこの地の風光を讃えた文言が見える。

昨日は秉君(引用者注-河東碧梧桐)と高浜(引用者注-高浜虚子)と三人にて高浜の延齢館に赴き候。この地の風光もっとも絶倫、須磨・明石も将(まさ)に色なからんとす。貴兄また一顧し給うては如何。(明治25年7月16日付・竹村鍛宛ての子規書簡)


この手紙には「涼しさや苫舟(とまぶね)苫を取はづし」(前書「高浜にて」)という句も添えられている。

同年、子規は「松山ゆ車も通ふ高浜の高どの遠く白帆ゆくなり」(前書「高浜海水浴楼上」)という歌も詠んでいるが、この「高どの」は延齢館のことであろう。伊予鉄道が延長されて松山より汽車で高浜まで行けるようになったので、「松山ゆ車も通ふ」と詠まれている(「ゆ」は起点をあらわす助詞。「~より」)。

延齢館は明治37年(1904)に取り壊された。その建物があった小僧坂も高浜港の工事に伴い、姿を消した。虚子の『松山道後案内』にこの延齢館についての言及があるので引用しておこう。

延齢館 海中に突出した岩の上の建物で、倶楽部組織になって居るが、貸席をも業として居る。青松を透して白帆の去来を望むべく、此辺の好風景は此楼一つで占領しているかの如き観がある。夏は海水浴場の休憩所にもない又塩湯の設けもある。



▼ 子規が称賛した高浜よりの風景
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【参考文献】
高浜清(虚子)『松山道後案内 附伊予鉄道の栞』俳書堂 1904年5月(1983年4月復刻)
『子規全集』第1巻(俳句1)講談社 1975年12月
『子規全集』第6巻(短歌 歌会稿)講談社 1977年5月
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
松山市教育委員会(編著)『俳句の里 松山』子規記念博物館 2013年3月

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