明治16年6月14日、正岡子規、憧れの東京に到着する

明治16年(1883)6月14日-この日の朝、子規(数え年17歳)は東京・新橋停車場に到着。憧れの大都会を初めて目にしたが、その印象は「東京はこんなにきたなきところか」であった。

去年六月十四日余ははじめて東京新橋停車場につきぬ。人力にて日本橋区浜町久松邸まで行くに銀座の裏を通りしかば、東京はこんなにきたなき処かと思へり。(『筆まかせ』第一編明治十七年の部「東京へ初旅」)


初めて見る鉄道馬車の鉄軌(今でいえば路面電車のレール)。子規はそれが何であるかもわからず、横断してよいのかどうかもわからなかった。

時にまだ朝の九時前なりき。それより川にそふて行けば小伝馬町通りに出()づ。こゝに鉄道馬車の鉄軌しきありけるに余は何とも分らず、これをまたいでもよき者やらどうやら分らねば躊躇しうる内、傍を見ればある人の横ぎりゐければこはごはと之(これ)を横ぎりたりき。(同上)


本郷弓町1丁目の鈴木方に下宿している柳原正之(極堂)を訪ねると、当人不在で現れたのは三並良(子規の親類で幼なじみ)。互いに驚き、話をしているうちに柳原も帰宅。柳原のすすめる菓子パンというものを子規は初めて食べる。

裏へまわるにどの家やら分らず、鈴木といふ名札を出したる処なし。遂にそこにある一軒の家に入りて問ふて見んと「お頼み」と一声二声呼べば「誰ぞい」といひつゝ出()で来りしは思ひもよらぬ三並氏なれば、互に顔を見合してこれはこれはといふ許(ばか)り也。(中略)三並氏も余の出京の事は露知らねば驚きて「まづ上れ」といふ。上りて「柳原は」と問へば「今外出せり」といふ。其時は十二時近かりしならん。色々の話の中に柳原も帰り来り。こゝではじめて東京の菓子パンを食ひたり。(同上)


故郷松山ではまだなじみのない菓子パン。

壹岐坂を下り切ってちょうど右へ曲ったところに駄菓子屋があって、菓子パンを売ってゐたので、それを茶菓子として子規へすゝめたが、田舎から今日出て来たばかりの彼には大いに珍しかったもので、右の初旅行記(引用者注-『筆まかせ』「東京へ初旅」)中にそれが記されてゐる次第である。(柳原極堂『友人子規』「出京」)


子規はこののち大の菓子パン好きとなる。

冒頭の「東京はこんなにきたなきところか」という子規の発言だが、森銑三の『明治東京逸聞史』に当時の東京の印象を伝える話が出ているので引用しておこう。

岡本綺堂は、少年の頃から英国公使館の一等書記長だったウィリアム・ジョウジ・アストンと識()っていた。一日綺堂がアストンと神田を散歩した時に、綺堂は街々の汚いのを恥じて、「ロンドンやパリには、こんな穢い街はないでせうね」といったら、アストンはうなずいて、「シンガポールや香港だってない」といった。しかしすぐその後から「けれども私は、日本の街を歩くことが好きだ。逢ふ人が男も女も、年寄りも子供も、みんな楽しさうな顔附きをしてゐる。だから東京の街を歩いてゐると、自分も楽しくなる」といった。
アストンはそれについでまたいった。「東京の街は、今にもっと奇麗になるでせう。東京は今に大都市となるだらう。しかしその時になっても、街を行く人達が、今のやうに楽しさうであるかどうか。その点は私にも分らない。」
こんな予言めいたことをいったそうである。以上は岡本経一著「綺堂年代記」に拠った。何年のことだったのか確実でないが、綺堂は明治二十一年に中学五年生であり、その翌二十二年に、アストンは日本を去る。しばらく二十年頃のこととして、この年の条に載せて置くこととする。これは当時の東京を考える上に、参考になる話だろう。(森銑三『明治東京逸聞史』明治二十年の部「日本人の顔」)


【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
森銑三『明治東京逸聞史1』平凡社東洋文庫 1969年3月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード