明治16年6月10日、正岡子規、東京へと出立

明治16年(1883)6月10日-この日、子規(数え年17歳)は東京へと出立、三津浜港からの乗船でひとまず神戸に向かった。

時に十日また離杯を傾く。正午車に乗って正に羇旅に就かんとす。親族・朋友おのおの門外に出()で余を送る。(中略)余の三津に至るや、太田・森二氏尋ねて至る。二時烟を挙げて来るものあり。これ汽船豊中丸なり。四時その船の中等室に投ず。送客みな船中に来りて余を送られたり。別れに臨んでおのおの辞をなす。余が悲また発す。少焉あって一声の汽笛とともに纜を解く。余窓を開いて望む。三津港後にあり。興居島前にあり。その快いうべからずといえども、その悲また発せざるを得ず。快や東都に赴いて宿志を達せんと欲するに因()る。悲や一人の我に伴うものなきに因るなり。(正岡子規「東海紀行」)


上京は子規の喜びとするところであったが、一人故郷を離れるのはさすがに心細く、子規はのちにこの三津浜港からの出航を生涯最大の悲痛事二件の一つと数えている。

また生来最もいやと思いしこと、即ち覚えず顔をしかめしこと二度あり。一は出京の際初めて三津を出帆する時にて、初めての旅といい、つれはなし、実に心細く思いたり。第二は予備門にて落第せし時にて、これはかねて覚悟ありたれども、生まれて小学校にはいりし以来、初めての落第といい、殊に親類の者などより叱られたればなり。(正岡子規『筆まかせ』第一編「半生の喜悲」)


子規が三津浜港から乗船した「豊中丸」は明治13年建造の120トンほどの蒸気船。船中では「ふる郷(さと)をかなたの空とながむれば窓にさし入るおぼろ月かな」の歌を詠む。11日神戸港着。そこからさらに乗船(「高砂丸」と推定)して横浜港に着き、東京・新橋駅頭にたどり着いたのは14日の朝のことであった。

▼ 現在の三津浜港(明治の頃の汽船乗り場は三津3丁目4付近)
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【参考文献】
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』第22巻(年譜 資料)講談社 1978年10月

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テーマ : 歴史上の人物
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