明治16年6月9日、正岡子規、道後に遊び故郷との別れを惜しむ

明治16年(1883)6月9日-上京を明日にひかえたこの日、子規(数え年17歳)は松山中学の弁論部「談心会」に出席、留別の意をこめて演説し、落涙数行に及んだ。

余の上京を決するや、こと至急に出()で朋友諸君に送別するの暇これなし。しかれども余やなお演説会の一事は常に心に関するを以って九日、閑を偸んで明教館(引用者注-松山中学講堂)に到る。けだし暗に別れを告げんと欲するなり。その演説の略にいわく、諸君のここに演説会を開くや、ために一国の元気を奮励するものあるなり。(中略)談心会はこれ将帥なり、伊予全国はこれその麾下なり。その進退盛衰いまだかつてこの会に因()らずんばあらざるなり。(中略)諸君の責任あに重きにあらずや。(中略)これ余が留別の辞なり。言終わって壇を退くや、落涙数行、暗に衣襟を湿せり。(正岡子規「東海紀行」)


同日午後、親族との宴を開いたあと、親友の太田正躬・森知之とともに道後温泉に行き、別れを惜しんだ。

同日午後、親族と離宴を開く。太田・森二子、余が家を訪(おとな)う。ともに道後に遊ぶ。けだし数年間また浴する能わざるを以って今夜別れを惜しまんと欲するなり。(中略)浴し畢って直に帰途に就く。人車を雇うて還る。時に恰も十二時なり。(同上)


東京に出れば道後温泉には「数年間また浴する能わざるを以って」云々。子規はのちに「自分は子供の時から湯に入る事が大嫌いだ」(『墨汁一滴』明治34年3月6日条)と述べているが、道後温泉だけは別だったのかもしれない。

▼ 道後温泉本館(この建物ができるのは子規上京の十年余りのち)
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【参考文献】
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』第11巻(随筆1)講談社 1975年4月

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テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

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