松山藩主定昭、城を枕に討死する覚悟

前回のつづき)

「朝敵」と見なされ追討を受ける立場となった松山藩。藩主定昭は帰藩後、三之丸に藩士を召集し、城を枕に討死する覚悟であると宣言した。松山藩士であった内藤鳴雪はこのときのことを次のように回想している。

(藩主)帰藩の翌日であったと思うが、藩士一同三の丸へ出頭せよとのことで、私も出頭して見ると、新藩主及び前藩主はその居間へ、士分以上の者五人ずつ呼び出されて、かく成り行く上は致し方ないから城を枕に討死する、従来の恩義上それを共にしてくるるならば満足であるが、異存ならば藩地を立ち去っても怨みはないというような熱烈沈痛なる宣告があった。僅かに五人ずつがそれを聞くのだから、前日の正午より翌朝の夜の明けるまで入れ替わり立ち替わりそこへ出た。私は同じ目付頭取次の仲間五人と、何でもその夜明け頃に、この宣告を承った。そして誰一人それに対して異存を唱える者がなかったが、控え席に退いては、右の御達しはあまりの思し召し切りだ、何とか今少し御思案もありそうなものだといって、かしこに五、六人、ここに七、八人各々密議をこらす者もあった。私はそのまま帰宅して、まだ病床にいた父にそれを告げたが、父はこの上は致し方ないと、嘆息したのみであった。(『鳴雪自叙伝』一〇)


同じく松山藩士であった池内信夫(高浜虚子の実父)は1月18日に「城を枕に~」の宣言があったとして、定昭の発言内容を次のように記録している。

我等が儀、朝敵と相成り候筋合い、聊かも覚えこれなく、心外の至りに候。速やかに登京、徳川氏始め朝敵と相成り候儀、申し開きも致したく候えども、京都御幼帝を薩州奸臣等抱き奉り、とても趣意貫通は致せざる儀と存じ候間、討手の人数、当地へ到着候わば、右筋合い、飽くまで応接致し候含みに候えども、万一彼が取り用いず妄動の儀致し懸け候わば、拠()んどころなく決心いたし防戦の外これなく、併しながら一同の趣意相違、同意これなき面々は何国へ立ち去り候とも、聊かも恨みとは存ぜず。さりながら二百年来主従と相成り、右の趣意承引致し、当城を枕として刃に血塗り、先途を見届け、死生を倶に致しくれ候わばこの上なき満足に存じ候。(「信夫私記」)


ところが同20日になると、定昭は抗戦の決意を撤回、「官軍」に恭順する旨を藩士一同に伝えた。定昭のこの突然の翻意は、前藩主勝成の意向が恭順論であったためであるという(『松山市史』)。同25日、定昭は松山城を出て、祝谷にある菩提所の常信寺に入り、恭順の意を示した。松山城接収のための「官軍」が藩地に入ったのは翌日夜のことであった。

【参考文献】
松山市史料集編集委員会編『松山市史料集』第3巻 1986年4月
松山市史編集委員会編『松山市史』第2巻 1993年4月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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