鳥羽・伏見の戦いのあとの松山藩

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都の南郊で旧幕府軍と薩長の革命軍が衝突、旧幕府軍はこの戦闘で惨敗した(鳥羽・伏見の戦い)。松山藩の兵は旧幕府の命で摂津梅田村付近の警備をしていただけで、この戦いには加わっていないといわれてきたが、近年の説では伏見において参戦していたともいう。

松山藩士であった内藤鳴雪はこの戦い直後の藩の動向について次のように記述している。

明くれば慶応四年即ち明治元年正月は、早々からかの伏見の戦争が始まった。私は前にいうごとく、父と共に藩地に淋しく住んでいたが、前年末より再び明教館の寄宿を命ぜられて、以前のごとく漢学を勉強することになっていた。忘れもせない新年の六日に京都から右の伏見の事変の急報があったので、我が藩は上下こぞって驚愕をした。而してまず援兵として藩の一部隊を差し向けることになったので、寄宿舎の同窓友人たる武知隼之助というが、これも出陣することになって、その翌日見送りをした。それからというものは我が藩は人心恟恟としていたが、十日に至って新藩主(注-慶応3年9月藩主就任の松平定昭。定昭は同年12月13日より在大坂)が帰藩されたということが伝わって士分一同三の丸へ出頭した。そして聞くところでは、伏見の開戦以来幕軍は連戦連敗で、遂には大坂城へ籠城せらるることになり、慶喜公もその意を一般に達せられたにかかわらず、一夜会桑侯および板倉侯を率いて、窃かに仏国船に乗って江戸へ退去された。この際我が新藩主には何の告知もなかったので我が上下共に非常に落胆した。かくなった原因を追想するに、まだ慶喜公が在京のとき会桑藩はただちに戦端を開こうとしたのを、新藩主は軽率なきようと慶喜公へ建議せられ、その後公と共に大坂へ下られたとはいえ、会桑両侯は心に釈然たらない、しかも新藩主の実家たる藤堂藩(注-定昭は伊勢津藩主・藤堂高猷の五男)は、幕府のために鳥羽を警戒していながら遂に官軍へ裏返ったので、これも新藩主にとっては、幕府に対して顔がよくなかった。(中略)かようの次第で新藩主には徳川方より聊か嫌疑を受けられた結果であるか、遂においてけぼりを食わされたので、この上は帰藩して飽くまで佐幕の旗を翻し、赤心を明らかにしようと決心された。折から前にいった藩の援兵が、そのとき一隻だけ持っていた藩の汽船(注-小芙蓉丸のことであろう)に乗って大坂へ着いたので、藩主及びその従兵もそれに乗って、なかなかの満員で混雑を極めながらも上下とも無事に帰藩されたのである。間もなく朝廷よりは慶喜公を始め会桑藩はもちろん姫路・高松及び松山藩等を朝敵と目されて追討を命ぜらるるということになった。(『鳴雪自叙伝』一〇)


この鳴雪の記述によると、鳥羽・伏見の戦いの急報が松山に届いたのが1月6日。翌日には小芙蓉丸(ブログ記事「松山藩所有の唯一の蒸気船」参照)とみられる船で援兵を送っているが、大坂着後も上陸することなく、同地にあった藩主定昭を乗せてそのまま帰藩している。この定昭の帰藩については『松山叢談』にも

(慶応四年一月)同月七日、朝廷へ御届置にて大坂屋敷御発、泉州堺表より御出船、同十日高浜御着船、同十一日暁御着城。(『松山叢談』十五)


と記されている。これによると定昭は1月7日に堺より乗船、10日には藩地高浜に着き、翌日朝、松山城に帰還している(鳴雪の記述によると、船が藩地を発ったのが1月7日だから、同日中に堺に着いていることになるが、このあたりの日付には誤伝があるのかもしれない)。

鳴雪の記述にも言及があるように、鳥羽・伏見の戦いのあと、松山藩は「朝敵」と見なされ「官軍」と称する勢力の追討を受ける立場となった。定昭は官位を剥奪され、京都の松山藩邸も没収。京・大坂の町筋には、

  高松 松山 大垣 姫路
右四藩従来天朝を軽蔑し奉り候儀少なからず候処 剰え今度慶喜叛逆に与力し官軍に敵し候段 大逆無道 これに依て征罰の軍差し向けられ候事
 正月十日 (『愛媛県史 資料編 幕末維新』)


という沙汰書が貼り出された。「征罰(征伐)の軍差し向け」、藩主定昭はそうした事態になれば徹底抗戦、城を枕に討死する覚悟であった。(次回につづく)

【参考文献】
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 資料編 幕末維新』1987年2月
松山市史編集委員会編『松山市史』第2巻 1993年4月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月
山崎善啓『朝敵伊予松山藩始末 土州松山占領記』創風社出版 2003年5月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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