松山藩の軍艦「小芙蓉丸」、長州藩に奪われる

前回のつづき)慶応4年(1868)1月末、杉孫七郎率いる約500人の長州藩兵が30隻の船に分乗して、三津浜に進駐。松山藩の軍艦小芙蓉丸はそのおり長州藩兵によって奪い取られた。この一件は松山側の史料に

此船明治元年二月(注-この二月の時点ではまだ慶応四年。同年の九月八日に改元して明治元年となる。)朝敵の御嫌疑御蒙の節長州人分捕として引取。(『松山叢談』第十四上)


とあり、長州側の史料にも

(慶応四年一月)二十六日、諸兵相前後して鞆港を発し、三津ケ浜に向ふ。松山藩の軍艦一隻五ケ島(注-興居島〈ごごしま〉のことであろう)に泊す。艦は幕府より借る所なり(注-この点は長州側の誤解)。杉孫七郎等五十余人軽舸に乗じて之に逼る。艦上人なし。杉等乃ち艦に入り搜索し松山藩士以下水夫七十余人潜で船底に在り。杉等遂に之を奪ふ。此艦は後ちに華陽艦と号せしものなり。其流さ七十間許り。頗る堅牢なり。或は曰く、松山藩人戎器糧食を載せ将さに逃走せんとして捕へられたるなりしなり。(『防長回天史』)


と出ている。内藤鳴雪(旧幕時代、松山藩士)の自叙伝には、松山藩内の抗戦派がこの船で江戸に向かおうと企てていたところを長州藩兵によって分捕られたと記されている。

過激党はまだ憤慨の気が収まらず、松山城で反抗することは出来ないまでも、遠く江戸に居る会桑軍(注-会津藩軍・桑名藩軍)に投じて、共に薩長と戦おうという考で、それには新藩主を擁立し同志者と共に海路江戸へ廻ろうということに内決していた。(中略)過激党の江戸脱走は、藩に一隻の汽船があったから、それに乗込む考であったのだがちょうど長州軍が船で三津浜まで来たので、その汽船も分捕りせられてしまった。(『鳴雪自叙伝』十一)


この鳴雪の記述は上の長州側の史料の「或は曰く」以下に符合するものであろう。

長州藩はこの奪い取った小芙蓉丸を華陽丸と改名、慶応4年3月26日に大阪の天保山冲でおこなわれたわが国最初の観艦式に自藩艦船として参加させた。明治5年(1872)、この華陽丸売却、解体処分された。

【参考文献】
久松氏蔵版『松山叢談』第十四上 1889年
近代史文庫編集発行『松山藩幕末維新政情関係史料 第二輯』1967年10月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 近世下』1987年2月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月
元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店 2004年4月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード