正岡子規、歳末の大街道の句

  松山
掛乞(かけごい)の大街道(おおかいどう)となりにけり


正岡子規、明治25年(1892)冬の句。「掛乞」は年末決済の売掛金の回収に歩く人、集金人。多くの「掛乞」が松山の繁華街「大街道」を行き来する年の暮れの風景を詠んだ句である。

「大街道」といふのは大きな街道といふ意味ではなく、松山にある町の名前である。松山の南北に通じてをる比較的広い町であって、それを大街道と称へてゐた。(中略)其町はふだんは店が両側に連ってゐて、物売りなども沢山通るし、往来の人も沢山あるのであるが、大晦日の日暮れともなれば、掛乞が通るのが特に目立って見えるといふ句である。其時分の年の暮れの感じも出てゐる。(高浜虚子『子規句解』)



「大街道」はもとは小唐人町(ことうじんまち)という町名であった。

「小唐人町」 湊町を二丁目までのぼって直角に左に曲ると、幅の広い大通が遠く城山の麓まで続いてゐる。これは小唐人町で俗に大街道と呼んでゐる。この町は湊町に次(つい)で賑かな町で、各種の商店は勿論、松山商業銀行支店、海南新聞社、新栄座といふ劇場がある。この町を更に北に行くと城山の半腹に愛媛県立松山病院が巍然として高く聳えてゐる。(明治42年刊『松山案内』)


▼ 大街道商店街一番町側入口
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大正の中頃までこの大街道には大法院川と呼ばれる小川が流れていた。

画像の右側辺りに芝居小屋でのちに映画館となった新栄座があった。明治28年(1895)10月6日、子規・漱石は道後散策からの帰途、この新栄座に立ち寄り、泉祐三郎一座演じる照葉狂言を観た。

新栄座の向かい側辺りには漱石が食べに行ったという「石風呂」なるうどん屋があったらしい(曾我正堂・下記書)。

戦記文学『肉弾』の著者・桜井忠温(1879-1965)、哲学者・安倍能成(1883-1966)、人間国宝の能楽師・宝生弥一(1908-1985)、これらの人物の生家はいずれもこの大街道にあった。

【参考文献】
東俊造編『松山案内』松山市勧業協会 1909年5月
曾我正堂『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』三好文成堂 1937年4月
高浜虚子『子規句解』創元社 1946年10月
池田洋三『わすれかけの街 松山戦前戦後』愛媛新聞社 2002年6月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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