「東京にては男女ともおめでとうという……」

東京で学生生活をはじめた正岡子規が同地の正月で驚いたのは男女とも「おめでとう」と言うことだった。故郷松山では母親から「おめでとう」は女子の言葉で、男はただ「めでとう」とだけ言うものだと教えられていた。

明治十七年は初めて東都に居候の正月を迎へぬ。(中略)東京の正月も貴顕参朝の外には竹飾りの少し風の変りたると「おめでたう」といふ言葉のみ珍しく覚えぬ。余幼かりし時阿嬢(注-母の意)教へたまひけるは「おめでたうとは女子の語なり男は只めでたうと許(ばか)りいふべし」と余も男なれば其教に従ひ来れるを東京にては男女ともおめでたうといふ。さては東京は物事めゝしき処よと感じぬ。(正岡子規「新年二十九度」)


「旧年中はいろいろお世話になり~」などと言うのは商人だけだったとも子規は述べている。

我邦にては「新年おめでたう」と申して、何の恙も無く新年に取りついたといふ、現在の境遇を祝し候へども、西洋にては「君が幸福なる新年を望む」と申して未来の幸福を祈る由に御座候。(中略)然るに饒舌なる都人は此簡単なる祝辞に満足せずして附録を附け申候。それは「新年おめでたうございます、旧冬はいろいろお世話様に預りましてあり難う存じます、今年も相変らずお頼み申します」といふ意味を言葉短く申事に候。(中略)私の郷里にては、昔は、商人のみ旧冬云々の挨拶を述べ、士分以上は只「新年めでたう」といふばかりなりし由申候。さも潔く思はれ候。他藩にも同例多かるべくと存候。(正岡子規「消息」ホトトギス第3巻第4号 明治33年1月10日)


森鴎外の史伝『伊沢蘭軒』には次のような記述。

天保八年は蘭軒歿後第八年である。此年の元旦は、阿部家(注-備後福山藩)に於ては、新主正弘の襲封初度の元旦であった。正弘は江戸邸に於て家臣に謁を賜ふこと例の如くであったが、其間に少しく例に異なるものがあって、家臣の視聴を驚かした。
先例は藩主出()でて席に就き、前列の重臣等の面(おもて)を見わたし、「めでたう」と一声呼ぶのであった。然るに正弘は眦(まなじり)を放って末班まで見わたし、「いづれもめでたう」と呼んだ。新に添加せられたのは、唯「いづれも」の一語のみであった。しかし事々皆先例に遵(したが)ふ当時にあっては、此一語は能く藩士をして驚き且喜ばしめたさうである。(森鴎外『伊沢蘭軒』その二百四十四)


備後福山藩主の元日の祝辞は例年「めでとう」。藩主に限らず武士たるものは全国どこでも「めでとう」と言っていたのであろう。

【参考文献】
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
『鴎外選集』第8巻 岩波書店 1979年6月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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