内藤鳴雪の屋敷跡

▼ 内藤鳴雪の屋敷跡(堀之内東南隅)
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安政6年(1859)、京都留守居役であった鳴雪の父が松山に帰任、城北傘屋町に屋敷を賜ったが、同年末、堀之内(松山城三之丸)の東南、土塁ぎわにあらためて屋敷を賜った。明治7年(1874)まで一家はここに居住。鳴雪はこの屋敷について次のように記している。

この私の邸(注-傘屋町の屋敷)は長く住まわないで、その年末には城山の麓の堀の内という、即ち第三の郭中へ更に邸を賜った。これは父の実家たる菱田というが住んでいたが、この際外へ移ったので、その跡をそのまま賜ったのである。これもかなり旧い邸ではあったが、傘屋町のものに比すれば、聊か好いので、家族等も少々安んじた。この邸は南堀に沿うた土手の下で、土手の上には並松が植っているし、裏面には櫨(はぜ)の木が植っていた。紅葉する頃になると坐っていてそれを眺める事が出来た。私が漢詩の方で今も南塘(注-塘はつつみ、土手の意)と号しているのは、この南の土手の際に住んでいたからである。(『鳴雪自叙伝』六)



▼ 「南塘」の号の由来となった屋敷南側の土塁
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▼ 土塁の上
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明治半ばから昭和の敗戦まで堀之内一帯は歩兵第二十二連隊の営所で、鳴雪の屋敷があった辺りは、連隊の厩舎、蹄鉄工場などであった。屋敷跡東側の土塁にある馬頭観音像はそのころの名残りである。

▼ 土塁にのこる馬頭観音像
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内藤鳴雪(1847-1926)は本名素行(もとゆき)、漢詩では南塘、俳句では鳴雪と号した。松山藩上級藩士内藤同人(ともざね)の長男として江戸の松山藩中屋敷に生まれる。藩校明教館に学び、藩主後継者松平定昭の小姓を務めた。維新後は県の学務課長・文部省参事官。官吏退任後、常盤会寄宿舎(東京本郷真砂町に設置した松山出身者のための寮)の舎監(監督)となり、その寮生であった正岡子規の影響で句作を始める。鳴雪は子規より20歳も年長であったが、俳句のうえでは子規の弟子を自認、子規派の長老として重きをなした。

【参考文献】
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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