秋山好古、揮毫嫌いが一転……

秋山好古はもともと揮毫嫌いで、書を懇望されてもなかなか応じようとはしなかった。のちにそれが一転するのは道後の鮒屋旅館(現在の「ふなや」)で次のようなことがあったからだという。

揮毫の如きも晩年に至るまでは、部下などから如何に願っても決して筆を取らなかった。余程気の向いた時に稀に扇子に二三字を書く位で、それも多くは「不撓不屈」、「不動如山」、「至誠動天」等の軍人式の文句であった。だから将軍の揮毫を所望しながら、遂に貰ひ得なかった人も少なくない。(中略)
それ程までに揮毫嫌ひであった将軍が心機一転、墨場必携を手放さぬ程になったことに就て、新田長次郎氏(注-松山出身の実業家)は次のやうな話をしてゐる。
将軍が北予中学校長時代の大正十四年に、清浦奎吾伯(注-枢密院議長・内閣総理大臣)が新田氏の招きに応じて松山に来り、道後の鮒屋旅館に宿泊した際、諸方より揮毫を懇望するものが多かったけれども、僅に二日の滞在であったので、昼夜共に視察や歓迎に殆んど筆を取る暇がなかった。
出発日の朝早く新田氏が清浦伯の室を訪ねると、伯は四時に起床して既に三十枚程の揮毫を終へ、出発時刻までに六十余枚を書上げたので、流石に努力主義の新田氏も老伯の精力の偉大に驚いたのであった。
すると其の朝伯を旅館に訪ねた秋山将軍は之(これ)を見て、新田氏に「余り年寄を責めるなよ」と言ふと、同氏は「清浦伯は最早一個の清浦伯でなく、日本の清浦伯である。だから揮毫を請ふ者があれば今朝などは四時から起きて厭な顔もせず書いて居る。貴方も今は日本の秋山大将です。人は一代、名は末代と云ひますから、家宝とするため揮毫を依頼する人格者には、書いてやって貰ひたいものですなア」伯の揮毫を見てゐた将軍は、
「なる程熱心がなければ斯うは書けない。之から俺も書くよ」
と言ったので、新田氏は大坂に帰ると、早速画仙紙一反と、大きな硯とを松山の将軍に送ったが、翌年の春新田氏が再び将軍に会った時、
「今年は正月からもう数百枚書いて、方々へ送ったよ」
と将軍は言ったさうである。(『秋山好古』第一篇第九章第六「将軍と揮毫」)


松山地方には好古揮毫の碑が数多くある。護国神社(松山市御幸1丁目)境内の「天壌無窮」もその一つ。

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天壌無窮 陸軍大将秋山好古謹書


「天壌無窮」は『日本書紀』巻二のいわゆる「天壌無窮の神勅」が典拠。

葦原千五百秋之瑞穂国、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。宝祚之隆、当与天壌無窮者矣。(『日本書紀』巻二「天壌無窮の神勅」)

葦原の千五百秋の瑞穂の国はこれ吾が子孫の王たるべき地なり。いまし皇孫(すめみま)、就()でまして治(しら)せ。行(さき)くませ。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮り無けむ。


明治から昭和の敗戦までの国家体制下ではこの「神勅」が国体の基を定めたものとして重視された。

【参考文献】
秋山好古大将伝記刊行会(編集・発行)『秋山好古』1936年11月
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本書紀(一)』岩波文庫 1994年9月

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テーマ : 歴史
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