秋山好古の最期の言葉

昭和5年(1930)11月4日、秋山好古死去。その臨終の模様は公式の伝記に次のように描かれている。

四日になった。病勢は悪化の唯一途を辿るばかりであった。
白川大将が病床の側に立った時、将軍の眼には大将がよく映らなかったらしい。そして頻りに譫言を続けてゐた。
「奉天の右翼へ、……」
「鉄嶺へ前進!……」
「……」
総てが日露戦争の時のことのみであった。あゝ秋山騎兵旅団難戦苦闘の印象は、将軍の脳裡には、死の直前までも消えることがなかったのである。昏睡からふと覚めた時、長女塚原與志子夫人が、
「お父さん、何かお申置きになることはありませんか」
将軍はたゞ一言
「ない」
次女土居健子夫人が、
「これから信好の所へ手紙を出しますが、何か用事はありませんか」
将軍は言下に、
「ない」
多美子夫人が将軍の顔を窺(のぞ)くと、将軍は、
「俺はまだ慾が深すぎたよ」
意味は解らぬが、多分生き延びるために手術までしたことを言ったのであらう。
再び昏睡状態に入った。譫言が又始まった。併し声は細り行き、医師は臨終の近きを告げた。
酒の好きであった将軍のために、末期の水の代りに紅茶にコニャックを混じたものを用ひたが、将軍は無意識にそれを吸ふかの如くに感じられた。枕頭には家族近親が声を呑んで見守ってゐる。鈍い電灯が血の気の乏しい将軍の蒼い顔を静かに照らしてゐる。
折柄将軍危篤の報を聞いて駆け付けた士官学校同期生の本郷大将(房太郎)が、耳に口を寄せて、
「秋山、本郷が判かるか、馬から落ちるな」
と言ふと、将軍は目をぱっちり開いて微笑した。そしてはっきりと、
「本郷か、少し起して呉れ」
と言った。起せば良くないことは判ってゐる。
多美子夫人を始め家族の人達は、一刻千秋の思ひで、嫡嗣信好氏の帰京を待ったが、医者より到底間に合はないと言ひ渡された。
では本人の望みのまゝにと、本郷大将と次男次郎氏とが前後より抱へ起したが、暫しの後疲れるだらうからとて再び寝かすと、そのまゝ永き眠に入ったのである。
鉛のやうな重苦しい気が、さっと室内に満ちたと思ふとき、看とれる人々の歔欷は、あたりの空気を繊細に震はせた。
昭和五年十一月四日午後七時十分、一代の名将秋山好古は、その七十二年の無休の闘ひを茲に終へたのである。(『秋山好古』本紀第七章第二「永眠」)


司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、この伝記の記述をもとに好古の最期が次のように描かれている。

手術後四日間ほとんど昏睡していたが、同郷の軍人で白川義則が見舞にきたとき、好古の意識は四十度ちかい高熱のなかにただよっていた。
かれは数日うわごとを言いつづけた。すべて日露戦争当時のことばかりであり、かれの魂魄はかれをくるしめた満州の戦野をさまよいつづけているようであった。臨終近くなったとき、「鉄嶺」という地名がしきりに出た。やがて、
「奉天へ。――」
と、うめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。(『坂の上の雲』「雨の坂」)


伝記に書かれている事柄を徹底的に削ぎ落とすことによって、小説としての効果を高めている。「奉天へ」というのも伝記では好古の最期の言葉ではないのだが、敢えて選択してこれを最期の言葉とし、印象をより深いものとしている。

秋山好古の最期の言葉というのは本当は「馬引け」だったらしい。好古の臨終の場に立ち会った秋山中(秋山真之の三男)の証言がビデオでのこっており、満州を思い起こしてのものと思われる「馬引け」が最期の言葉だったと語っている(松山市歩行町「秋山兄弟生誕地」上映ビデオ)。

▼ 秋山好古銅像(秋山兄弟生誕地)
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【参考文献】
秋山好古大将伝記刊行会(編集・発行)『秋山好古』1936年11月
司馬遼太郎『坂の上の雲(八)』文春文庫(新装版)1999年2月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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