周防大島の「若者組」

宮本常一(民俗学者)の『家郷の訓』に、周防大島(山口県)の「若者組」の習俗についての記述がある。

若者組には十五歳になった正月四日に加入する。もとは村の旧家の一軒が世襲的に若者組の宿をしていて、若者のすべての会合にはその宿へ集まった。若者は十五歳から上で、結婚して樽入れの祝いをすれば仲間から退くことができたが、樽入れをしなければ三十歳で退くことができた。(中略)頭(かしら)は四人いて札入れできめた。(『家郷の訓』「若者組と娘仲間」)


「若者組」は平等性を原理としていた。

若者組には百姓の子だけでなく地侍の子も庄屋の子も一様に加入して、その待遇の上には差がなかった。従って侍の子だからといって特に頭に選ばれることもなかったし、組の中にあっても少しの距(へだ)てもしなかった。(同上)


「若者組」のおこなう行事は、正月の道つくろい(里の道の修繕)、一月七日の白木山(周防大島にある山)の相撲、夏のヒゴモリ(田植え後の豊作祈願と共同飲食)、盆踊り、盆の道つくろい、秋祭りの御供献進、同じく秋祭りの地狂言と神輿かきなどであった。

若者たちの日常の生活は村の中にいくつかある「若者宿」を中心にしてなされた。

日常の若者たちの生活は若者宿を中心にしてなされる。この宿は寄合の時集まる宿とはまた別で、泊り宿である。若者組はこの泊り宿とは直接本末的な関係はなく、泊り宿の方は任意で、泊りに行かない若者も多かった。しかしできるだけ泊り宿へ出そうと勧めるのは家の母であった。「世間を見ておかねば……」とか「人並みのことはしなければ……」というのがその理由であった。
泊り宿は村の中にいくつもあった。普通の民家が宿になったもので、そういう家の表の間を借りて寝泊りしたのであるが、この宿がまた一種世襲的になっていた。この泊り宿へも十五歳になると行くことができた。(同上)


この「若者宿」では先輩格の者が年少者に手仕事、その他いろいろなことを教える。

先輩たちはそれから若い宿子に対して色々のことを教えていくのである。第一に丁髷(ちょんまげ)時代にはこの丁髷を結うてやるのが兄分たちであった。夜業(よなべ)なども一緒に行なうことが多く、そういう指導はすべて兄分の役目で、莚を織ったり菰を編んだり、籠を作ったりするようなむずかしい手仕事はたいていこの宿仲間から教えられたという。そして特に親しい仲であると、兄弟分になった。兄弟分といってもむずかしい儀式はなかったが、一たび兄弟分になつと親身(しんみ)の兄弟以上に仲がよくなった。(中略)
泊り宿の生活は若者としてのたしなみを得る大切な方法であった。だから泊り宿へも行かぬような者は世間見ずと言われたものである。事実出る所へ出て物の言えるようになるのはこの泊り宿の生活からであった。(同上)


「若者宿」での夜の仕事を終えると、「娘宿」などへ行って遊んで帰る。

若者たちは夜業の一しきりもすると、それから娘の家などへ遊びに行き、戻って宿で寝る。娘たちも自分の家にいることは少なくたいてい娘宿またはどこかの家に集まって苧績(おう)みや木綿ひきをしている。そういうそばで遊んで来るのだが、あまり無駄口ばかりして遊んでいると、娘たちに笑われたり冷かされたりするので、中には土間の隅のダイガラで米や麦を搗きながら娘たちと談笑する者もあった。(同上)


「若者組」の男たちと娘仲間は団体で親しくしていた。正月と盆の道つくろいのときなどは、「若者組」の男たちが全部出て仕事に励み、娘仲間がかれらのために食事の用意をしてふるまう。道つくろいの重労働も娘仲間が用意してくれる食事があるがために、本当に楽しく、よい思い出となったという。

周防大島の「若者組」、村の若者たちはこれに加わることによって、村の伝統と慣習を学び、一人前の村人となっていったのである。

【参考文献】
宮本常一『家郷の訓』岩波文庫 1984年7月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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