正岡子規、西洋料理ばかり食べていた時期

明治22年(1889)10月初旬、正岡子規は東京下谷黒門町「無極庵」隣の木村方に仮寓した。常盤会寄宿舎に在舎のまま一時的に移り住んだもので、この年の5月、喀血したことによる病後の保養のためだったらしい。この仮寓の近所には飲食店が多かった。

第一に余が寓居の近所をいへば概ね飲食店待合の類なり。先づ北の端よりいはんに氷月亭の汁粉は書生社会に名を轟かせり。其隣りに貝鍋あり、待合あり。清凌亭は精進料理を以て世の茶人に粋と称せらる。我寓の南隣は新築にかゝる無極庵にて、安直なる書生の懇親会の会場なり。其に接して鳥又と青陽楼は両天秤をかつぎ、蓬莱亭は表の船板に半可通を粋がらしむ。松源はさすが名うての料理屋、我々赤貧書生の門戸を窺ふべきもあらず。これにつゞきて待合二三軒ありて忍ぶ川の打ちどめに又安料理あり。橋を渡りても牛肉店、そばやの類、檐(のき)をならぶれど、料理は鳥八十の専売に帰し、蕎麦は蓮玉を古代よりの名家とす。上野の山中には精養軒と八百膳ありて東西の両大関なれど、それらはいはずともまだ向へ側には雁鍋、だるま汁粉を隊長として手下は挙ぐるに遑あらず。(正岡子規『筆まかせ』第一編「書生臭気、三区の比較」)


その病後の保養ということには、これら飲食店で栄養のあるものを食べるということも含まれていた。

想ふに子規は病余の保養、出養生といふやうな意味で、滋養物も摂取し新鮮なる大気も呼吸すべく、斯くは池の端(注-子規が仮寓した木村方は不忍池付近)まで進出したのであたらう。上野山内から不忍池にかけて当時は閑静でもあり、空気も純良で今日の如き熱鬧の地では固(もと)よりなかったのである。此歳(注-明治22年)夏休中を郷里の実家に帰ってゐた際にも、子規はスッポンの生血や鶏のソップを吸ったり、葡萄酒で煮た桃や小鯛の刺身を喰ったり、毎日身分不相応の贅沢をして保養につとめてゐたと令妹(注-正岡律)は曾て語ってゐたが、不忍池畔の際も矢張その保養生活の延長と見て可なりであらう。(柳原極堂『友人子規』「下宿がへ(三)」)


当時の子規は上の『筆まかせ』の一段にも言及のある「青陽楼」で西洋料理ばかり食べていたという。

病気になってからは殊に食物に浮身をやつしたのである。不忍池辺の青陽楼の隣に下宿して保養して居た頃などは青陽楼へ通帳を作って西洋料理ばかり食って其支払の嵩むに自ら驚かれた事は一二度のみならずである。(大谷是空「正岡子規君」)


つけ払いの通帳まで作っての「青陽楼」通い。子規は食べることに関しては金銭を惜しまなかった。

【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』別巻2(回想の子規1)講談社 1975年9月

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テーマ : 歴史上の人物
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