「無極庵」と「うどん亀屋」

正岡子規の「東京松山比較表」(『筆まかせ』第一編「松山会」)に

無極庵 うどん亀屋


という項目がある。「無極庵」は東京の下谷黒門町にあった料理屋(のち無極亭と改称)で、子規は明治22年(1889)の秋、この「無極庵」の隣の木村方に仮寓していた。『筆まかせ』には

我寓の南隣は新築にかゝる無極庵にて、安直なる書生の懇親会の会場なり。(第一編「書生臭気、三区の比較」)


との言及がある。子規が「東京松山比較表」を松山会の例会で発表したのもこの「無極庵」であった。

今年(注-明治22年)十二月上野無極庵に於て松山会の例会を催しぬ。集まる者四十名、而して書生過半を占む。(中略)余も演説などゝは夢にも想はざりしが、せんすべなく前座として少ししゃべりちらせり。(中略)略々演説の終る頃、余は兼てよりこしらへ来りし東京松山比較表を読みあげたり。(『筆まかせ』第一編「松山会」)


うどん亀屋」は小唐人町(大街道)と湊町が交差する「魚ノ棚」というところにあった「しっぽく」が名物のうどん店。松山地方の人にとっては記憶にのこる店だったらしく、水野広徳(三津出身)も安倍能成(大街道出身)も自伝の中でこの店に言及している。

饂飩は魚の棚の亀屋のが一銭五厘で量が多く、餅は新立の橋本のが二厘で美味しかった。

書生仲間では饂飩のことをロングと呼んで、魚の棚の亀屋が最も有名であったが、亀屋には大街道側と河原町側に同じ様な店が二軒あった。この時代の学生で亀屋の御厄介にならなかった者は恐らく一人もあるまいと思う。(水野広徳「自伝」)


(魚ノ棚の)東側に中吉といふ大きな料理屋があり、その北隣に饂飩亀屋と呼ばれた饂飩屋があった。多分湊町の醤油亀屋から資本が出て居たのであらう。(中略)亀屋のしっぽくは有名だったが、それ二銭か一銭五厘くらゐだったであらう。(安倍能成『我が生ひ立ち』「大街道のその他の家々」)


夏目漱石の『坊っちゃん』には

おれは蕎麦が大好きである。東京へ居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香ひをかぐと、どうしても暖簾がくゞりたくなる。(中略)其晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。翌日何の気もなく教場へ這入ると、黒板一杯位な大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。(『坊っちゃん』三)


という天麩羅蕎麦事件が描かれているが、これは松山中学教師時代の漱石の同僚、弘中又一が「うどん亀屋」でしっぽくを四杯食べた一件がモデルになっているらしい。

実際の所小説「坊っちゃん」の一部々々には根拠がある、事実がある、モデルがある。(中略)主人公坊っちゃんにしても漱石のこともあり僕のこともある。僕と漱石の間には毎日の出来事やら失策やらを互ひに語り合ふて笑ひ興ずることが多かったので、自然二つが一所になって一人の坊っちゃんを作り上げたのでもあったらう。(中略)僕が小唐人町と湊町一丁目(注-二丁目の誤りであろう)の角の饂飩屋でしっぽくを四杯食ったら、シッポク四杯也と黒板に書かれた。小説では漱石が自分の好きな天麩羅蕎麦に改めている。(弘中又一)


小唐人町と湊町の角と言っているから、「魚ノ棚」の「うどん亀屋」と特定して間違いないだろう。

【参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
安倍能成『我が生ひ立ち』岩波書店 1966年11月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『漱石全集』第2巻 岩波書店 1994年1月
『水野広徳著作集』第8巻(自伝 年譜)雄山閣出版 1995年7月
松原伸夫『「坊っちゃん」先生 弘中又一』文芸社 2010年8月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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