秋山好古の「つらくてたまらん」時代

明治10年(1877)5月4日、秋山好古(数え年19歳)は陸軍士官学校に入学(第3期生)。入学試験の作文で「飛鳥山ニ遊ブ」の題意を勘違いしたあの本郷房太郎も同期であった。不運なことにこの入学前の2月、西南戦争が勃発、陸軍当局は士官学校の生徒も在学のまま戦地におくるつもりでいたから、同年入学の好古らに対する教育は過酷を極めたものとなった。さすがの好古もその過酷さにはこたえたようで、短い休暇中に帰省したおり、士官学校のことを尋ねた友人(鴨川正幸)に「つらくてたまらん」とこぼしている。

(鴨川正幸は)その年の夏、士官学校から休暇のため帰省してゐた秋山と途中で出会ったことがある。鴨川氏は秋山に向って、
「お前、士官学校い入ったさうぢゃねや。アシも田舎で愚図愚図してゐて詰まらんけん、士官学校いでも入らうかと思うんぢゃが、何()うかねや」
と聞くと、率直な秋山は、
「止()め止め、何ぼにも辛くてたまらんけん」
と言ったので、生来あまり強健でもなかった鴨川氏も、思ひ止(とど)まったといふことである。(『秋山好古』第一篇第二章第一「初めて剣を吊る」)

(注-文中の「士官学校い~」は「士官学校へ」の意。松山地方の方言では助詞の「へ」は「い」のように聞こえることがあるのでこのように表記したのであろう。)


士官学校の教育は忍耐強い好古でも「つらくてたまらん」ものであった。この鴨川と好古のやりとりは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、

好古は三津浜で船からおり、下士官服に似た士官学校の制服をきて町へ入ってきた。そういう好古を最初に町角で見かけたのは、幼友達の鴨川正幸であった。(中略)
鴨川はなつかしいよりもなによりも、好古が士官学校に入ったことがうらやましくてならず、
「士官学校ちゅうのは、やはり官費かな?」
とたしかめてから、
「あしも田舎で薄ぼんやりすごしていてもつまらんけん、士官学校ィでも入ろうと思うんじゃが、どんなもんじゃな」
鴨川にすれば、本気であった。(中略)ところが好古は、
「やめえ、やめえ」
と、帽子の下から汗をながしながら手をふった。鴨川はおどろき、何してや、ときくと、
「何してて、あげなところ、なんぼか辛うてたまらん」
と、好古は頭をふった。(中略)
「信さんでも、つらいかねや」
これには、鴨川もおどろいた。銭湯にやとわれて水汲み風呂たきをした好古の姿を鴨川は幼友達だっただけによく知っており、その好古がつらがるようでは、
(あしにはどうにもならんな)
とおもった。


というように、小説的にうまく脚色されて描かれている(文春文庫新装版第1巻91ページ以下)。

▼ 松山市梅津寺町・見晴山の秋山好古銅像
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【参考文献】
秋山好古大将伝記刊行会(編集・発行)『秋山好古』1936年11月
司馬遼太郎『坂の上の雲(一)』文春文庫(新装版)1999年1月

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