正岡子規「絶筆三句」

正岡子規の絶筆は「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」の三句。子規はこの三句を死の前日(明治35年9月18日)、仰臥のまま筆で記した。そのときの模様は側にいた碧梧桐が克明に記録している。

妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。軈(やが)て例の画板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるのであらうと不審しながらも、予はいつも病人の使ひなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添へ、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ
 糸瓜咲て
とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくさうにあったので、こゝで墨をついで又た渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて
 痰のつまりし
まで又た一息に書けた。字がかすれたので又た墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駈られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに
 佛かな
と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるやうに感じた。書き終って投げるやうに筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つゞけざまにして痰が切れんので如何にも苦しさうに見えた。(中略)其間四五分間たったと思ふと、無言に前の画板をとりよせる。予も無言で墨をつける。今度は左手を画板に持添へる元気もなかったのか、妹君に持たせた儘(まま)前句「佛かな」と書いた其横へ
 痰一斗糸瓜の水も
と「水も」を別行に認めた。こゝで墨をつぐ。すぐ次へ
 間にあはず
と書いて、矢張投捨てるやうに筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなさうなので、予は以前に増して動悸が打って胸がわくわくして堪らぬ。又た四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ちかたが少し具合がわるさうであったが其儘少し筋違に
 を登ひのへちまの
と「へちまの」は行をかへて書く。予は墨をこゝでつぎながら、「登」の字の上の方が「ふ」の字のやうに、其下の方が「ら」の字の略したものゝやうに見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であらうと聊か怪みながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるものゝやうなしるしをした。それで始めて「を登とひの」であると合点した。其あとはすぐに「へちまの」の下へ
 水も
と書いて
 取らざりき
は其右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂の方が先きに落ちたので、白い寝床の上へ少し許(ばか)り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身も其字を見て居る様子であったが、予は此場合其句に向って何といふべき考へも浮ばなかった。がもうこれでお仕舞ひであるか、紙には書く場処はないやうであるけれども、又た書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去る事が出来なかったが、其後再び筆を持たうともしなかった。(河東碧梧桐「君が絶筆」『子規言行録』)

[「登」は碧梧桐の原文では「登」をくずした変体仮名の「と」であるが、ここでは便宜上漢字の「登」で示した。]


この三句をしたためてから13~14時間後に子規は亡くなった。

子規直筆のこの「絶筆三句」は軸装されて子規庵に保存されていたが、子規の五十回忌に当たって国立国会図書館に寄贈された。同館のデジタル化資料でその画像を見ることができる(→http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288398/5)。

「絶筆三句」の書としての価値を論じたものに石川九楊『近代書史』(第25章)があることも付け加えておこう。

【参考文献】
河東碧梧桐編『子規言行録』政教社 1936年12月
石川九楊『近代書史』名古屋大学出版会 2009年8月

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テーマ : 歴史上の人物
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