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明治松山の三大呉服店

正岡子規(1867-1902)の「東京松山比較表」(『筆まかせ』第一編「松山会」)に

大丸 米周
越後屋 米藤
白木屋 しほや


という項目がある。「大丸」「越後屋」「白木屋」は江戸・東京の三大呉服店。これに対応する「米周」「米藤」「しほや」は松山の代表的な呉服店で、いずれも子規生い立ちの家と同じ町内の湊町(長町・永町)に店舗を構えていた(「米周」は現在、ビル名としてのこっている。「しほや」は現在の塩屋呉服店)。

この湊町に近い大街道で生まれ育ったのがのちの学習院院長・安倍能成(1883-1966)であるが、その自叙伝『我が生ひ立ち』は幼少年期=明治の頃の松山についての記述が詳しく、「米周」「米藤」「しほや」についても以下のように語られている。

長町で米周、米藤といふ同じ格の呉服屋が二軒隣り合せて居て、米藤の方は世良藤蔵といひ、米周が即ち長坂で、父は長坂周次郎といひ、兵七郎(注-安倍能成の小学生時代の同級生)も跡取りになってからは父の名を嗣いだ。長町には外に「志ほ屋(しほや)」といふのがあったが、これは京都からの出張店であって、精選された品はこちらにあるといふ姉の話であった。しかし「志ほ屋」の方はひっそりして居たけれども、米周、米藤の方は実に賑かであった。広い店を鍵の手に十数人の手代がすわって客に接して居た。客の注文の品を聞いては、手代が側に待機して居る丁稚(小僧)に、何々を持って来いと命ずると、丁稚はええーんといって、その品物を歌のやうに復誦し、奥の蔵へいって持って来るのである。恐らく蔵にはさういふ品を配付する手代が居るのであらうが、私はその後又外でかういふ光景を見たことはないけれども、恐らくこれは松山だけの現象ではあるまい。(安倍能成『我が生ひ立ち』Ⅰ「尋常小学のクラスメート」)


ここに記されているように、明治の頃までの呉服店は、店頭に商品を陳列せず、客の注文を聞いてから奥の蔵にしまってある商品を取り出し、客に見せるという座売り方式だった。ショーウィンドウが取り入れられ店頭に商品を飾る陳列販売方式が一般化するのは大正期になってからであったらしい。

明治27年(1894)10月刊の『商工案内松山名所普通便覧』では、「米周」が「呉服太物商 長坂周次郎」、「米藤」が「呉服太物商 世良藤蔵」、「しほや」が「呉服太物商 志を屋 吉田重兵衛支廛」として出ている。明治42年(1909)3月刊の『松山案内』では、「米周」が「合名会社米周呉服店舗」、「米藤」が「商号米藤世良呉服店」、「しほや」が「呉服太物商 商号塩屋 吉田重兵衛支店」として出ている。

【参考文献】
安倍能成『我が生ひ立ち』岩波書店 1966年11月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
池田洋三『新版 わすれかけの街 松山戦前戦後』愛媛新聞社 2002年6月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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