大正時代の三津浜

大正12年(1923)に三津浜商工会から発行された『みつが浜』という小冊子に当時の三津浜町の模様が略述されている。

三津浜は海によって発達した町であるだけ市街も又、海に面して横長く発達し、対外的商家の多くは海岸に沿ふた方面に店舗を構えてゐる。
三津浜町は、巻頭の地図に示した通り、南北に長く伸びて十二町三十間を算し、東西は僅に六町余に過ぎぬのであるから、伊予鉄電三津浜駅を基点として海岸に突き貫ける住吉町筋と県道松山街道が海岸に出て行く新立、通町を除いたら、東西の町に街らしい気分の溢れたところが乏しいのに反し、海岸に沿った海岸通りや、栄町、三穂町、須先町、藤井町あたりに商港としての活気が漲ってゐるやうである。試みに街の状態から概括的に色彩を加へて見るならば、海岸通りと栄町と、藤井町とは海運業者と卸商人によって賑い、須先町と三穂町とは銀行町といったやうな気分に富み、住吉町は呉服屋、雑貨店等の小売商で繁昌し、柳町、桂町附近は料理屋、置屋、劇場で頗る陽気に、広町や通町は公会堂や学校や各工場で重々しい気分を見せ、稲荷新地は遊廓で不夜城を現出してゐるとでもいへやう。そして将来の三津浜は、地勢の関係上どうしても、東西に向けて発展拡張されるものと思はれるのである。
現在の戸数は二千四百四十四戸であって人口は一万三千百十二人これを職業別にすると
商業(専業)七百五十九戸、同(兼業)二百一戸、
工業(専業)五百五十三戸、同(兼業)五十戸、
農業(専業)三十九戸、同(兼業)三十一戸、
交通業(専業)三十九戸、同(兼業)十三戸、
漁業其他雑業七百五十九戸
といふのであるから、三津浜町は普通村落に交った町と違って、純然たる商工業地であることが肯かる。尤も目下交渉中の隣村古三津村の合併が成立すれば面積も戸数も増加するのであって此合併は遠からず実現するであらう。(『みつが浜』「市街」)


商港としての活気が漲っているのは「海岸通りや、栄町、三穂町、須先町、藤井町」とあるが、これは現在の三津1丁目、2丁目辺りで、大正のなかば頃まではこの辺りが三津第一の繁華街であった(1984年刊の『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』にも大正中期頃までは、「旧三穂町、藤井町界隈は三津浜で一番の繁華街であった」との記述がある)。

上には「目下交渉中の隣村古三津村の合併」云々ともあるが、同村との合併が実現したのは大正14年(1925)。財政難であった古三津村を三津浜町が吸収する形で、合併が実現した(ブログ2010年4月23日記事参照)。古三津村と合併した三津浜町は、郡部の町としては県下最大。北に隣接する新浜村をも吸収して、「三津市」に昇格するというのが当時の町民の悲願であった(ブログ2010年1月9日記事参照)。

【参考文献】
栗本諒二『みつが浜』三津浜商工会 1923年4月
愛媛県史編纂委員会編『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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