港町「三津」の形成

港町「三津」が形成されたのは、加藤嘉明(1563-1631)が松山城に本拠を移した時代とするのが通説であるが、日本近世成立史が専門の藤田達生はこれを小早川隆景(1533-1597)の伊予統治の時代に求めている。

湊山城については(中略)隆景が河野氏段階の城郭を修築したと推定して大過ないと判断する。これに伴い、堀に相当する湾を隔てた対岸の三津がその城下町として整備された可能性も考慮せねばなるまい。現在の三津の起源は、一般的に慶長八年(一六〇三)に加藤嘉明が松前城(松前町)から松山城に本拠を移転した時、この地に水軍の根拠地を移して船奉行を置き、町割をおこなったことに求められているが、隆景による湊山城修築の時期までに遡らせることもできるのではあるまいか。(藤田達生「伊予国における近世の開幕」『日本中・近世移行期の地域構造』)


現在の三津の起源は、慶長八年に加藤嘉明が松前城(松前町)から松山城に本拠を移転した時、この地に水軍の根拠地を移して船奉行を置き、町割を行ったことに求められている。ただし、天正十四年から当時伊予国主だった小早川隆景が三津の対岸の湊山に新城を築城したから、この時点にまで遡る可能性もある。(藤田達生『蒲生氏郷』)


中世瀬戸内の地域史が専門の山内譲はこれをさらに遡らせて河野氏の時代に港町「三津」が形成されたと述べている。

隆景が伊予の領主であった期間は、天正十三年閏八月から同十五年六月までの満二年ほどであることを考えるならば、隆景の時代に行われたことには自ずから限りがあるであろう。やはり港町三津の基本がつくられたのは、隆景の支配に先立つ河野氏の時代でなければならないのではないだろうか。このように、三津は戦国末期の河野氏の時代に、港と町場と城を備える臨海の拠点として整備されたものと考える。(山内譲「伊予国三津と湊山城」)


三津の北に位置する西港山には中世河野氏の時代から「湊山城」と呼ばれる城郭があった。その城の名は当地に港と呼べるものがあったことを示すもの。港があったとすれば小規模にもせよ、どれほどかの町場が当時から形成されていたのかもしれない。

▼ 「湊山城」があった西港山(標高52m)
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▼ 西港山(中央)・東港山(右)
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【参考文献】
藤田達生『日本中・近世移行期の地域構造』校倉書房 2000年8月
藤田達生『蒲生氏郷』ミネルヴァ書房 2012年12月
山内譲「伊予国三津と湊山城」(「四国中世史の研究」第7号 2003年8月)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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