伊予国「三津」の地名

半井梧庵(1813-1889)の『愛媛面影』に「三津」の古名は「御津」であったという説が出ている。

三津浜(みつのはま) 松山城下より一里余西に在り。古三津より此所に移したりと云。旧蹟考に三津の三は例の仮字にて古大御船の泊し港なれば御津(みつ)とはいふなるべしといへり。南海治乱記に河野通直、豊前国根津浦より出船にて、予州御津浜に渡りなど見えたれば、旧(もと)は御津と書けるなるべし。(『愛媛面影』巻三)


地名「三津」は、港、船着場の意の「つ」に美称の接頭語「み」がついたものだから、「旧は御津と書けるなるべし」というのも肯けなくはないが、古代地名の難波の「みつ」などは同じ『万葉集』の中で「御津」(1巻63)、「三津」(3巻293)、「美津」(1巻68)等と表記されているから、伊予の「みつ」も古くから「御津」「三津」などと表記されていたのではなかろうか。

戦前に三津浜町役場から発行された『三津の面影』には、「御津(おんつ)」が転じて「三津」になったとある。

「三津」と云ふ名の由緒については、いろいろ説もありますが、往古、天皇皇后の道後温泉に行幸啓の砌、御座船をつけさせられるので「御津(おんつ)」と称へ、後に至って「三津(みつ)」と転化したと伝へられてゐるのが事実のやうです。(『三津の面影』「三津浜港 沿革」)


「御津」は「みつ」であり、「おんつ」とするのは適切ではないだろう。

『博多日記(楠木合戦注文)』という史料の正慶2年(1333)3月11日条に出る「伊予国水居津」はこの伊予の三津のことであるともいわれる。

正慶二年三月十一日伊予国水居津に付テ、同日申時ニヤガテ寄テ、同十二日平井城ニテ被討人々……(長門周防探題北条時直の伊予進攻を伝える『博多日記』の記事)


この史料について、『角川日本地名大辞典 愛媛県』、山内譲「伊予国三津と湊山城」にはそれぞれ次のようにある。

「楠木合戦注文」の正慶2年閏2月1日の条に周防長門2か国の守護職の北条時直が南朝方の伊予国の国人土居九郎の館を攻め、さらに同3月11日には「伊予国水居津」に攻めたが、共に敗退したということが記載されており、水居津が当地のことであれば、三津の古名を水居津といったとも推定される。(『角川日本地名大辞典 愛媛県』「三津」の項目)


ここに見える平井城の合戦は、伊予側の「忽那家文書」や「三島家文書」では、星岡山の合戦として記述されているものと同じであろう。平井城や星岡山の位置から考えて、長門周防勢が上陸した「水居津」が三津である可能性は非常に高いといえよう。もしそうであるとすると三津の港は鎌倉時代からすでに開かれていたことになる。(山内譲「伊予国三津と湊山城」)


「水居津」は当地三津のことであったかもしれないが、三津の古名が「水居津」であったとまではいえないのではなかろうか。

【参考文献】
半井梧庵『愛媛面影』巻三 阿部書房 1910年12月
谷本延衛『三津の面影』愛媛県三津浜町役場 1929年8月
中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社文庫 1978年8月
『角川日本地名大辞典38 愛媛県』角川書店 1981年10月
山内譲「伊予国三津と湊山城」(「四国中世史の研究」第7号 2003年8月)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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