ペリー来航の日

嘉永6年6月3日、ペリーの率いるアメリカの艦隊が浦賀に来航。この日は西暦では1853年7月8日、160年前の今日である。ペリーの『日本遠征記』によると、艦隊の浦賀沖到着は同日の午後5時頃、朝は曇っていて靄が濃かったが、浦賀に着いた頃には晴れ上がり、富士山の頂まではっきり見えたという。

この朝は空が非常に曇って靄が濃かったので、不幸にも眼界は極めて狭く、噂に聞く日本の天気の特徴が確かめられたように思われた。(中略)
大島と呼ばれているヴリース島を擁する相模湾口を右舷に通過して、艦隊は相模岬へ向って進航した。靄が都合よく霽れたので、今や大富士が相模湾の背後に聳えているのが見え、その円錐形の頂は天空高く聳えて遥かの彼方に姿を現していた。またその頂には白い帽子をかぶっていたが、それが果して白雪であるか或いはまた白雲であるかは見分けがつかなかった。(中略)
午後五時頃艦隊は江戸湾の西側にある浦賀町の沖合に投錨した。(中略)
投錨直前に天候はからりと晴れ渡り、富士山の高い頂はますますはっきりと見え、遥か彼方に横たわる群峰から抜きん出て高く聳えていた。標高八千乃至一万フィートと測定された。(『日本遠征記』第12章)


日本の開国を求めての来航。だが、それは日本に対する武力行使をも想定したものであった。

武力に訴えての上陸の問題は事件の今後の発展によって決定されるものであった。これは勿論、採らるべき最後の手段であったし、また最後たることが望ましかった。しかし提督は最悪の場合を予想して、艦隊に対して絶えず完全な準備をさせておき、戦時中と全く同様に乗組員を徹底的に訓練した。(同上)


浦賀投錨の3日後、ペリーは幕府の番船を阻止して江戸湾内に測量船を送りこんでいるが、これは日本の「領土への武力侵入であり、日本の国法に反するとともに、ペリー自身が遵守すると述べていた文明国の慣行、近代国際法にもまったく違反するものであった」(井上勝生『幕末・維新』)と指摘されている。

【参考文献】
土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記(二)』岩波文庫 1948年10月
井上勝生『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』岩波新書 2006年11月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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