加藤恒忠、市会での最後の演説

大正12年(1923)2月27日、加藤恒忠(拓川)松山市長は末期の食道がんという重篤な病状でありながら市会に出席、この日の議案であった在郷軍人会への補助金支出に反対して、以下のような演説をおこなった。

私は、在郷軍人会が入退営の時など旗を立てゝ送迎する。これらも仲間の仕事としては至極宜いことであろうが、市としては必要のない事である。

(在郷軍人会は)その組織を見ると甚だ官僚的である。会長は陸軍大臣であり、地方でも顧問が知事、内務部長、聯隊長で、全くの官僚的である。しかも在郷軍人会の事務は各地市町村の兵事係が嘱託されているが、松山市等は他にいくらも仕事があって忙しい際に市書記をこれにとられる事は甚だ迷惑である。かかる事業に対し市民が租税を出して補助すると云う事は、どうしても私には分からないのである。

今や世界は軍制変革に全力を挙げているが、平和の外交は国民全体が其の衝に当たる、即ち国民外交でなければと云うのが今日の世界における大勢である。軍人が軍人のみにおいて別に軍壁を設けると云う事は時勢に鑑み疑問とせねばならぬ。

純真な青年の頭に軍隊精神を無闇に注入されては困る。帝国主義、軍国主義は事々に打破されておるのが今日の大勢である。軍人の精神教育が青年に感染するのは甚だ危険千万と云わねばならぬ。


加藤恒忠のこうした反対意見にもかかわらず、市会はこの議案を可決した。外交官としての経歴もある加藤は国際協調・平和主義が信条で、軍国主義的な風潮には批判的であった。在郷軍人会への補助金支出反対も加藤のそうした信条にもとづくものであった。

加藤の市会への出席はこの日が最後であった。翌月26日、死去。死に至るまで意識は明瞭、恬淡としていてユーモアを忘れなかった。死の直前の次のようなエピソードは加藤のそうした人柄をよくあらわすものである。

君は食道癌を患ひ絶食数日に及び僅に灌腸して余生を保つときに於ても市長としての事務を執り、市会の如きも自ら之(これ)に参列した。そうして一方には高浜に風月を観賞し、友人を呼んで快談自若として居たものであるが、終(つい)に一滴の水、一粒の米をも飲下し得ざること三十余日に及びて尚死せず此種の患者として医界の新記録を作った。斯()く重患となって西園寺侯(引用者注-西園寺公望)から見舞として葡萄酒を贈られたるとき固(もと)より之(これ)を飲下するを得ず、僅に灌腸して陶然一酔、侯には「お見舞の葡萄酒有りがとう尻から飲んで酔ひました」と謝電を発した程の洒落者で迚(とて)も常人の為し得ざる処を死するまで実行した。(井上要『北予中学・松山高商楽屋ばなし』三十五「加藤恒忠君の死」)



▼ 高浜の海岸からの風景(興居島・四十島)
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東京芝に自宅のあった加藤は郷党から松山市長就任の要請をうけて郷里に帰り、高浜に新居を構えた。海を眺めることのできるその新居を加藤は「浪の家」と命名した。

【参考文献】
井上要『北予中学・松山高商楽屋ばなし』岡田栄資(編輯兼発行人)1933年11月
『松山市史』第3巻 松山市役所 1995年5月

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テーマ : 歴史上の人物
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