FC2ブログ

会津騒動-主君加藤明成と家臣堀主水の争い-

加藤嘉明の没後、家督を相続した嫡子明成は、父の代からの重臣・堀主水(もんど)と対立、「会津騒動」と呼ばれる君臣の争いを引き起こした。史書はこの騒動を次のように伝えている。

(寛永)同き八年九月十二日、嘉明六十九歳にして卒す。式部少輔明成、家を継ぐ。(中略)同き廿年五月三日、遁世して所領の地、悉く収公せらる。
明成が遁世せし事は、父の時より家の老に堀主水と云ふ者ありけり。明成は父に似ずして、世人の嘲り笑ふ政事などありしを、かの堀、事に触れては諌むる事もありけん、主従の間不快なりき。堀が従者と或者の従者と、争論の事出来たり。堀が従者、非拠たる由を明成決断す。誠は堀の従者の申す所、理ありければ、堀重ねて、これを訴ふ。故に堀勘当せられて、剩さへ職事を奪る。堀やすからぬ事に思ひ、舎弟多賀井又八郎、真鍋小兵衛と三人、宗徒の郎等八人、妻子従類すべて三百余人、寛永十六年四月十六日寅の刻ばかりに、若松の城を出て、中野といふ所にして、鉄炮を放ち、辰の時ばかりに、倉兼川に至り、往来の橋を焼断ちて去りぬ。明成此由を聞て、討手を差向けしかど打漏しぬ。堀は鎌倉に忍び居たりしに、討手むかふと聞えしかば、高野山に赴く。明成、使者を立て速に搦め取って出さるべきよしを云せけると、此山には来らぬよしを答ふ。明成大に怒て、おのが所領に替て、かの家人を追捕せん事を訴へて、既に軍兵を高野山に差向けんとす。堀こゝにも、たまりかねて、紀伊殿の御領に隠れ居たり。明成やがて紀伊殿に此由を申て、討手を差向く。堀かくと聞て関東に忍び下り、一封の書を奉りて、おのれ罪なき由を申し開く。左大臣家(注-将軍徳川家光)此よし聞し召され、申す所ことわりあるに似たれども、身既にかの家の司として、初めに兵を挙て城を去り、火を放って橋を焼く。これ君臣の礼を失ひ、国家の法を乱る。其罪これ軽からずとて、明成が乞ふに依て、兄弟三人を賜る。明成大に悦び、同十八年の三月、堀が兄弟三人を、芝浦の別業にして誅しぬ。既に所領に申し替へ、家人を願ひのまゝに下し賜て誅しぬる上は、かくてもあるべき事ならねば、同廿年に至りて、身の病多く国務に堪へず、かるが故に所領の地、悉く奉る由を申して、遁世せしなり。(新井白石『藩翰譜』第七下「加藤」)


明成と不和となった堀主水は、妻子眷族三百余人を率いて会津を出奔、城下を出たところで若松城に向けて発砲したというから、よほどの恨みがあったのだろう。明成のこの家臣に対する怒りもすさまじく、諸地に逃れる堀を執拗に追捕、ついにこれを誅殺するに至った。その後、明成は病気を理由に会津40万石の所領を幕府に返上するのだが、実質的にはこれは騒動を引き起こしたことによる改易措置であったのかもしれない。

このいわゆる「会津騒動」を小説にしたのが田宮虎彦(1911-1988)の『寛永主従記』である。同小説は新聞に連載後、半世紀以上単行本化されなかったが、2010年、明治書院からようやく刊行。作者は連載前に「会津騒動を題材にした作品をライフワークにしたい」と周囲に語っていたという(愛媛新聞2010年5月17日記事)。

【参考文献】
『校刻 藩翰譜』巻四 吉川半七(発行者)1894年9月
『国史大事典』第1巻(丸井佳寿子執筆「会津騒動」の項)吉川弘文館 1979年3月
田宮虎彦『寛永主従記』明治書院 2010年4月
日下部正盛『加藤嘉明と松山城』愛媛新聞サービスセンター 2010年9月

DSCF9204_convert_20141203115317.jpg

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード