城北練兵場

愛媛大学(城北キャンパス)、松山赤十字病院がある辺りは、明治22年(1889)から昭和の敗戦まで「城北練兵場」と呼ばれる陸軍(歩兵第22連隊)の演習用地であった。

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愛媛大学近くの鉄砲町の道路脇には「陸軍省所轄地」と刻まれた当時の石柱が残っている。

練兵場とはいってもただの広大な野原で、立ち入りが禁止されていたわけでもなく、子供たちの恰好の遊び場となっていた。中学生の高浜清(虚子)がはじめて子規と出会ったのもこの練兵場であった。

まだ私は子規といふものの存在を知らなかった時代で、私達がその時分に中学校で英語の教師のアメリカ人から、ベース・ボールといふものを教はって、四、五人の仲間で松山城の北にある練兵場に行ってバッティングをやってをった時分に、東京から帰った学生が四、五人通りかゝって私達のバッティングを見てをりました。その内の一人が私達に借用を申込んで、私達からそれを受取ったその人は、他の一人の人の前に持って行きました。その人の風采は他の人達と違って兵児帯を緩く巻帯にし、暑い夏であるに拘らず、なほ手首をボタンで止めるやうになってゐるシャツを着て、而も自らこの一団の中心人物であるらしく、その儘で軽くバッティングを始めました。他の人達は皆数十間あとずさりをしてそのボールを受取るのでありました。そのバッティングは素晴しく、今迄私達がやって居った距離よりも遥かに遠方に球が飛んで行きました。軈てそれ等の人々は練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまひました。それが子規であったことが後になってわかったのであります。(高浜虚子『俳句の五十年』「ベース・ボールと子規」)



日露戦争の時にはロシア兵捕虜の収容施設がここに置かれた(通称「城北バラック」)。広大な敷地であったから、飛行大会、博覧会など各種催し物の会場としても利用された。県内ではじめて飛行機が飛んだのもここを会場とする飛行大会(大正3年9月20日・柳原極堂経営の「伊予日日新聞」主催)であったという。

▼ 「草の花練兵場は荒れにけり」の子規句碑(平和通)
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【参考文献】
『高浜虚子全集』第13巻(自伝回想集)毎日新聞社 1973年12月
二神将『子規の文友 柳原極堂の生涯』松山子規会 1997年2月
池田洋三『新版 わすれかけの街 松山戦前戦後』愛媛新聞社 2002年6月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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