松山城・県庁裏登城道

▼ 県庁裏登城道
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▼ 登り石垣
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県庁裏登城道では登り石垣を見ることができる。

▼ 長者ケ平(ちょうじゃがなる
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県庁裏登城道をのぼると長者ケ平(ちょうじゃがなる)に到着する。東雲口登城道、ロープウェイ・リフトの到着点も同じくこの長者ケ平である(「ちょうじゃがなる」の「なる」は山中の平坦な土地、平らに開けた土地を意味する方言)。

長者ケ平には以下のような伝説がある。

松山城山の東山麓に長者が平といふ平地がある。これは鎌倉時代にこゝに近郷随一の長者が住ひその屋敷があったといふのであって、その長者にまつはる面白い伝説がある。
もとこの長者はこの山の麓に住み、非常に貧しい暮しをしてゐたが、何とかして富限者になりたいと、湯山村横谷の毘沙門天に百日の願をかけ毎夜一里半の道を通ひ、一夜々々とその境内の小竹を一本宛持ち帰り、満願の日を楽しんだ。九十九夜目に毘沙門天が夢枕に立ち
「汝の願ひを憐み聴き届けてやるが我が境内の小竹を持ち帰りしは不都合である明晩ことごとく持ち来れ」
との御告げがあり、驚いて満願の夜に九十九本の小竹を戻して御詫びをした。その後思ふこと為すこと皆意に叶ひ忽ちに大富限者となり、味酒山の中腹に豪華な邸宅を営み、住ふたが、さて富限者となると昨日迄言葉も交さなかった親族縁者が大勢頼って来ては物を乞ひ、見も知らぬ者達迄何彼と縁故をかこつけて日々集まり来る煩はしさ、それを思ふと昔の貧しさの生活が遥かに優れてゐることを知り、何とかして財を散じたいと努めたが、一旦暴富を得ては少しも財は減る処か日々富むばかり、そこで或人が長者に告ぐるには
「家の枡を人に見られぬ様水で洗へば貧しくなることが出来る」
といふので長者は或る晩私(ひそ)かに麓に下り小池の水で枡を洗った。するとその言葉の如くだんだんと貧乏になり、遂にはその山の上で餓死するに至った。それでその山を「かつえ山」と呼んだといふのである。枡洗池の遺跡は今もその東麓に存してゐる。(『国宝松山城』)


長者がかつえて死んだ「かつえ山」が城山の名称の「勝山」になったともいわれる。「枡洗池」は昭和の終戦後くらいまでは残っていたらしい。

【参考文献】
『国宝松山城』松山市役所 1937年4月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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