イルミネーション

明治44年(1911)9月1日の松山電気軌道(松電)の開通日、道後、三津浜ではイルミネーションが取り付けられた。

松電の開通
道後公園の美観 公園正面入口にはアーチ形の門を造り柱頭大社旗、並に大小の国旗を交叉しイルミネーションを点綴し園内風詠館の附近には千燭光のアーク燈五個の設備あり。
(中略)
三津浜の盛飾 住吉橋停留所附近に大アーチを設け大イルミネーションの取付あり。(明治44年9月1日付「海南新聞」)


地方の一小鉄道の開通を祝ってのものだから、「大イルミネーション」とは言ってもささやかなものだっただろう。

イルミネーションの日本での始まりを石井研堂『明治事物起原』は次のように記している。

イルミネーションは、明治三十三年四月三十日神戸沖にて観艦式のありし時、夜間各艦に発光して海面を照破し、一大偉観を添へたるに始まる。
其後大阪に於ける第五勧業博覧会に於て点火したるイルミネーションの電燈数は六千七百余燈にて、一時其壮観を賞せられしが、明治四十年三月廿日東京上野に開ける東京勧業博覧会にて日曜大祭日の夜毎に場内建物等に点火したる数は三万五千八十四燈に上り、其点火料一夜千三百円なりし。(石井研堂『明治事物起原』第五類 実業「イルミネーションの始」)


「大阪に於ける第五勧業博覧会」というのは、明治36年(1903)に開催された第五回内国勧業博覧会のことである。内藤鳴雪はこの博覧会ではじめてイルミネーションを見たと述べている。

明治丗六年(中略)この往途大阪にもちょっと立寄ったが、それは内国博覧会が盛んに開かれているという事を聞いたのでそれを見物する事と、その他は久しぶりで、松瀬青々氏や青木月斗氏や水落露石氏を訪うためであった。この博覧会に始めて電燈のイルミネーションを見たのである。こんな事は東京よりも大阪の方が先鞭をつけていた。(『鳴雪自叙伝』二十)


明治40年(1907)の「東京勧業博覧会」のイルミネーションについては、同年連載の漱石の小説『虞美人草』に言及がある。

蛾は燈に集まり、人は電光に集まる。(中略)閃く影に躍る善男子、善女子は家を空しうしてイルミネーションに集まる。
文明を刺激の袋の底に篩ひ寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。苟しくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんが為めにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きて居るなと気が付く。(中略)
「是は奇観だ。ざっと龍宮だね」と宗近君が云ふ。(中略)
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を点す。
「あの一番右の前に出てゐるのが左様だ。あれが一番善く出来てゐる。ねえ甲野さん」
「夜見ると」と甲野さんがすぐ但書を附け加えた。
「ねえ、糸公、丸で龍宮の様だらう」
「本当に龍宮ね」(中略)
「あれが外国館。丁度正面に見える。此所から見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。-あの恰好が好い。何と形容するかな」と宗近君は一寸躊躇した。
「あの真中丈(だけ)が赤いのね」と妹が云ふ。
「冠に紅玉を嵌めた様だ事」と藤尾が云ふ。(中略)
「空が焦げる様だ。-羅馬法王の冠かも知れない」
と甲野さんの視線は谷中から上野の森へかけて大いなる圜を画いた。(中略)
博覧会は当世である。イルミネーションは尤も当世である。驚ろかんとして茲にあつまる者は皆当世的の男と女である。只あっと云って、当世的に生存の自覚を強くする為めである。(『虞美人草』十一)


この博覧会では、台湾館、外国館、三菱館といったパビリオンが夜々にイルミネーションで輝き、人々を驚かせていた。東京の夜がまだ暗かった時代だったから、当時の人のその驚きは現代のわれわれが想像する以上のものであっただろう。

【参考文献】
石井研堂『明治事物起原』橋南堂1905年1月
『漱石全集』4巻 岩波書店 1994年3月
内藤鳴雪『鳴雪自叙伝』岩波文庫 2002年7月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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