伊予鉄と三津浜

明治24年(1891)1月に開かれた伊予鉄道の株主総会で、松山-三津間の路線の高浜延長が議案となった。三津浜町の株主らはこれに猛反対したが、井上要らの賛成派が多数を占めて可決、工事が着手され、翌年5月、三津-高浜の延長区間が開通した。のちに長きにわたってつづく三津浜の対伊予鉄抗争はこの高浜延長が発端であった。

二四年一月開催された伊予鉄道会社の株主総会において、既設の松山-三津間の鉄道(二一年一〇月開通)を、高浜まで延長する案が、議題にのぼった際、この案は三津浜港を衰滅させる結果を招くと判断した同町有志二神清八らは、猛烈に反対した。その理由とするところは、港湾としての欠陥をうずめて、船車連絡が完成した暁の高浜港は、必ず三津浜港を圧倒し、その繁栄を奪うに相違ないというのであった。結局井上要(伊予鉄委員)らの高浜延長論が、二神らの反対論を抑えて勝ち、資金二万円をもって、翌二五年五月高浜まで、伊予鉄道は延長された。これが三津浜港を主張する一派との熾烈な対立抗争をよびおこし、やがて県政上でも党争を誘発する大問題の発端となったのである。(『松山市誌』第五章)


高浜延長は第一回の株主総会で既に延長を予想し三津停車場の位置を変更していたのである。しかし、三津町民はこの延長を同町の繁栄を奪うものとして大反対をなし、これを議する二十四年一月の株主総会は、井上要を主唱者とする賛成派と、これに反対する三津派に別れ、宛ら一大討論場化したが、結局延長論が勝を制した。
そうして、この工事は工費的に二万円を投じて、翌二十五年五月一日には開業することを得たのであった。
後年、三津、高浜の抗争は愛媛県政にもその累を及ぼし地方の大問題となったが、それは全くこの僅か二粁(㌔)半の鉄路に胚胎していたのである。(『伊予鉄道七十年のあゆみ』)


伊予鉄の路線の高浜延長はこの地に同社主導で近代的な港を築いて、船と鉄道の連絡をはかろうとするものであった。隣接する港町三津浜にとってそれは大きな脅威であり、藩政時代よりつづく町の繁栄が危機に瀕することであった。三津浜では伊予鉄不乗車運動をおこしたり、馬車を運行させるなどして同社に反抗したが効果はなく、ついには松山電気軌道(松電)という競合鉄道会社まで設立して伊予鉄に打撃を与えようとした。会社の規模はもとより違うが最新鋭の広軌電車による併行線の運行で、伊予鉄にとっては恐るべき強敵の出現であった。

鉄道が交通の利便となるものである以上は沿線の市邑からは最も歓迎せらるべきはづである。この沿線の市邑こそ鉄道の為めには誠に大切なる御得意であって相思共栄の間柄でなくてはならぬ。然るに松山に次げる沿線の大市街三津浜町より計らずも此鉄道が好感を以て迎へられざるのみならず、却って仇敵視せらるゝに至りたるは実に当事者不徳不敏の責を免れず真に遺憾至極である。
三津浜の諸氏は先きに鉄道の不乗車同盟を作ったが夫()れは間もなく解消した。今度愈(いよいよ)高浜が開港となり汽船が同港に移るや之を憤慨して鉄道に対抗すべく明治三十九年十一月から有志結合して馬車営業を開始したが、馬車を以て鉄道に当るは火縄筒を以て精鋭の新武器と相争ふようなわけで到底永く続かないとは分ってゐる、誠に苦心焦慮の折柄政友会の有力者と共に断然新鋭を誇るべき電車を敷設し並行線を造って一挙に伊予鉄を根底から征服する計画を立てることゝなった。(中略)
鉄道に並行して美事な電車を敷設せんとするは真に匕首を我喉元に擬するものであって之こそ実に恐るべき強敵の出現と云はねばならぬ。(井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』第四「松山電気軌道の競争より合併まで」一「恐るべき競争電車」)


高浜開港によって将来の繁栄を阻まれたと信じた三津浜町有志は、政友会の有力者と提携して、伊予鉄道に併行線をつくり、しかも電車を運転して相手を圧倒しようと画策した。同四〇年(一九〇七)三月に松山電気軌道株式会社が設立せられ、三津浜-道後間の施設工事が始められたが、ようやく同四五年(一九一二)三月になって全通した。伊予鉄道でもこれに対抗するために、同社線の一番町-道後-古町間を改築して電化し、松電よりも早く電車による運転を開始した。かくて両社の競争は激烈をきわめ、一番町・道後では両社の駅が軒をならべ、両社員は電車の発車前に警鈴をふりながら街道にまで進出して、乗客の争奪をするありさまで、この風景は全国の話題とまでなった。(『愛媛県史概説』上巻)


明治二四年(一八九一)一月伊予鉄道が株主総会において松山~三津間の鉄道を高浜まで延長することを議題にあげたのを契機に、それまでは必ずしも顕在化してなかった高浜港との対抗意識が三津浜港湾関係者に俄然強まることとなった。伊予鉄道はかまわず高浜までの延長を実行する。そして案の定、山陽鉄道・大阪商船を結ぶ宇品航路の船車連絡運輸が開始される(明治三六年三月)。これを便利にするため高浜駅が桟橋に近い埋立て地に移設されるやら、大阪商船会社は支店を三津浜から高浜に移すやらで三津の人々の心中は穏やかならぬものがあった。(中略)
高浜整備を推進する伊予鉄道の社長井上要は進歩党の代議士でもあったので、三津浜側はあげて対立政党の政友会勢力を応援しこれを利用しようとした。反伊予鉄意識がこうじて、鉄道で打撃を加えようと、明治四〇年(一九〇七)には松山電気軌道会社が設立され、当時まだ松山にはなかった電車を伊予鉄道と併行して走らせ、両社の激しい競争風景が全国の話題となるような事態も起こった。(『愛媛県史 社会経済3 商工』第3章・第3節・4)


松電は明治40年(1907)3月設立、44年9月開業。伊予鉄との間に激しい乗客獲得競争をくりひろげたが、会社規模の違いは如何ともしがたく、当局の仲介などもあって、大正10年(1921)4月、伊予鉄に吸収合併された。

【参考文献】
井上要『伊予鉄道思ひ出はなし』伊予鉄道電気社友会 1932年9月
伊予鉄道株式会社『伊予鉄道七十年の歩み』1957年10月
愛媛県『愛媛県史概説』1959年3月
松山市誌編集委員会『松山市誌』1962年10月
愛媛県史編纂委員会『愛媛県史 社会経済3 商工』1986年3月

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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