松山中学生・子規、職員室へ連行される

正岡子規は松山中学時代、弁論部に籍を置き政治的な演説を盛んにおこなっていた。

余は在郷の頃、明治十五、十六の二年は何も学問せず、只政談演説の如きものをなして愉快となしたることあり。(『筆まかせ』第一編「演説の効能」)

小生は近頃演説好に相成、第一北予青年演説会に居り(中学校講堂を借受け毎日曜日の夜開会す)、第二中学校談心会に居り(毎土曜日晝間中学校講堂に於てなす)、第三明報会にも入れり(是は貴君も御入社被成候ひし興禅寺の会なり)。実に愉快に奉存候。(明治16年4月30日付・三並良宛書簡)


柳原極堂によると、当時の子規は、城山や寺などでしきりに演説の稽古をしていた。

正岡は夜城山やお寺などで演説の稽古をしきりにやってゐたものと見え英語の先生で松岡といふ人がお前は注意人物になってゐる、お前の演説を警察の人間がひそかに聞いてゐるらしいからめったなことをいはないやうにせよと脅したことなどもあったらしい。(昭和6年座談会「子規を語る」発言者・柳原極堂)


明治16年(1883)1月14日、子規が明教館(松山中学講堂)で「天将ニ黒塊ヲ現サントス」という政治演説をおこなったときは、教官に演説中止を命じられ、職員室に連れて行かれた。

今晩の弁論会は正岡常規外三名出演と云ふ予報だったから、正岡の奴なにを喋るかな、彼の漢文で先生に賞めて貰った平重盛論でも担ぎ出して孝ならんと欲せば忠ならずなどとやるのか知らんと、私は演者が正岡と云ふのを興味に早くから講堂へ出かけたものだ。居士(注-子規居士)は二人目に登壇して私の演題はと言ひつゝ、背面の黒板へ白墨で黒塊と二字書いた。(中略)
居士の演説は其用語に於てたとひ学術的であっても、当時政界の形勢から推して黒塊は国会であり、その論旨の内容は国会開設要望であり、無論徹頭徹尾政談であることは聴者の誰にも容易に肯かれるところであったが、監督から一二回注意を受けつゝ、其度に巧く話頭を転換して最早結論に入らんとする時、監督はツト起ちて弁士中止をやった。そして居士は直ちに職員室の方へ拉し去られた。(柳原極堂「子規の青年時代」)


このとき聴衆の一人に過ぎなかった柳原極堂も職員室に連行された。「予は此の夜演説はしなかったのであるが、平生睨まれてゐたので序(ついで)に呼ばれたのであった」(極堂『友人子規』「中学校時代」)。子規と極堂が親友になったのはこの演説会の日からであったらしい。

私の予想は全く裏切られて、居士から国会開設要望の政談を聴かされたことは実に意外でしたが、又た実に愉快でした。噫(ああ)多感多情の才人なる哉とスッカリ感心させられてしまった。学校や夜学で顔をあはすまでゞ交際しなかった居士と私は其後至って親密な仲善しになってしまった。(同「子規の青年時代」)


【典拠文献・参考文献】
柳原極堂『友人子規』前田出版社 1943年2月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月
『子規全集』別巻3(回想の子規2 附補遺)講談社 1978年3月

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