正岡子規、故郷のよさを実感する

明治23年(1890)の正月休み、東京から帰省した正岡子規は、故郷松山が暖地であることを今さらながらに実感した。同年、子規は「故郷の暖気」と題して次のような一文を書いている。

此冬帰省せしに故郷の寒暖計は余程東京より高からんと思はる。寒暖計は兎も角も風の吹かぬだけにても大変に相違を感ずる也。家外に出でし時にても、北窓を開きし場合にても、東京の如き肌を切る如き(余の為には咽喉を切る如き)風の吹くことなし。故に余は松山にては夜間の歩行にもハンケチ注-当時はハンカチでなくハンケチの称が一般的)を首に捲くことは稀なり。余は毎夜十一二時頃に雪院(注-雪隠のあて字)に行くがきまりなるが、東京にては隙間の風、下より吹きあげてプーッと来れば尻は寒きこといはんかたなく、折角出かゝりし糞も辟易して後もどりする位なり。然るに郷里にては雪院に行きても水の中へ尻をつッこむ如き心地せしことなし。従て花の開くことも少しは早かるべし。(『筆まかせ』第二編「故郷の暖気」明治二十三年)


東京に比べると松山の冬ははるかに過ごしやすいものであった。これより以前の明治18年(1885)の夏休み、同じく帰省した子規は、故郷の海の幸が嘆賞すべきものであると述べている。

当地ニ於テ(中略)喜ばしきものハ第一海魚の鮮なる事にて候 就中小生の推して第一トスル所ノ者ハ鯛の吸ひ物と洗ひ鯛なり 洗ひ鯛ハさしみの類なれども夏日炎暑の候なればに菊池兄に至てハ此天地ニ生を受ケシより以来未ダ嘗て其味を知らざる事なれば若シ万々一ノ事ありて之ヲ食はしめば一嘗三嘆のみならざるべし(明治18年8月2日付・清水則遠宛書簡)


正月休みや夏休みの帰省で、子規は故郷のよさをあらためて認識した。「海南は英雄の留まる処に非ず、早くこの地を去りて東京に向ふべし」(「諸君将ニ忘年会ヲ開カントス」明治15年)の語をなして故郷を捨てた子規だが、いくたびかの帰省を経たのち吐露したのは、「世に故郷程こひしきはあらじ。(中略)故郷は学問を窮め見聞を広くするの地にあらずされども故郷には帰りたし。故郷は事業を起し富貴を得るの地にあらずされども故郷には住みたし」(「養痾雑記」明治28年)という思いであった。

【典拠文献・参考文献】
『子規全集』第9巻(初期文集)講談社 1977年9月
『子規全集』第10巻(初期随筆)講談社 1975年5月
『子規全集』第12巻(随筆2)講談社 1975年10月
『子規全集』第18巻(書簡1)講談社 1977年1月

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村

テーマ : 歴史上の人物
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QRコード